覚者慈音228

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                        NO178
    未知と既知の区別          その4                                                    教主寛大 講述


 人には錯覚作用を起こす具備あるによって無言詞を聞き取ることを得るなり。その作用を誤ちたる方向に向くる時は虚となる。錯覚を起し幻影を見る。この作用こそ自然より与へられたる種子なれば、正しき方向に芽を出さしめずば却って修養修業の妨げとなるのみ。謂はば雑草に等しければ注意せざるべからず。雑草として育てなば根底より是をぬきとること至難なるが故なり。然らば如何にすれば可ならんかと云ふに、その作用を肉体の方向にむけず、魂の方向に向はしめて、空の畑に移植する方法を構ずれば其にて可なり。然るに世人は其をなさず、唯その具備が肉体にのみ宿され居ることを肉体にのみ任せ居るが故に、却って肉体を疲労せしめて病苦を招くことすら多し。
 未知日記に於て語りたる如くすべては己より出でて己にかへると教へしはこの理なり。己、罪を犯して他に語らず、心の中にて悶々なし居る時心の呵責にせめられて耐へ難き苦痛を味ふは、錯覚作用の備はりあるによつてなり。この錯覚作用こそ用法によっては善ともなり又悪ともなる。人を殺害して幽霊を見る等も錯覚作用にして、謂はば己に出でて己にかへる結果に他ならず。己、犯せしその罪が己の心よりその罪の報いとなりて、怖ろしき魔霊を作り出して其によって悩まさるるも如きもみな自然の現象にして、錯覚作用の種子が成長して育ちたるが故なり。是を自己暗示と云ふ。自己暗示とは無言詞を有言詞に化せしめたる結果と知らば可ならん。
 世人にはかくも種々様々のそなはりがあるが故に、其によって魂を稔らすことを得るなり。無限詞を聴く力は、世人の魂に宿されあるによって魂みのり行かば、無言詞の作用は完全に伝はり、是によってまなこは開け耳は聞え、肉体の耳目の必要はなきに至る。魂の耳目開かば其にて無言詞界は許さるること疑ひなし。
 このところ迄至らずば未知は既知とはならざるが故に、すべてを我ものとして取り扱ふことを得ざるなり。慈音は日々ラジオと云ふ機械によって放送を聞き居れど、無言詞より受けたる事柄を事実によってたしかめんとして聴取なし居るにすぎず。空の未知より空の既知を得んとして行じ居るにすぎず。世人は言行一致と云ふ言葉を用い居れど、言行を一致せしめ居る人は少なし。まして空なる事の言行一致を計る人は稀なるべし。予言者は予言して、その予言が果して事実に現はれ居るかと云ふに、大抵は百分の一にもすぎざるなり。百発一中にもすぎざる如き予言は世人を迷はすのみにて却って害とならん。世人の中に予言者の数多けれど、その悉くがみな何等か己に利せんとしてその企みによって予言なし居る者の多きは、実に苦々しきことにして斯る徒輩は早く退散せんことを望む。


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