覚者慈音225

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                        NO175
   清浄無垢の人間とは如何なるものか  その5



   未知と既知の区別          その1                                                     教主寛大 講述


 汝等食事の時口中に入りたる籾の皮をはぎて喰ふ人は稀なるべし。籾は中に米の宿りあるに不拘、捨てられて消滅す。是稔らざるが故に皮ははがれ居らざるが故なり。愛して食する人は籾の皮をはぎて喰ふ。是等の事柄より今一つ語ることあり。米を炊く時水洗ひして捨つる米は一二粒には及ばざるべし。同じ稔を得たるに不拘斯くも捨てられて、役目を果さざる米に魂あらば何と語るやを想像し見よ。一粒の米たりとておろそかにすることは得難からん。慈悲の心はこの程度迄のばさずば真の愛とはならざるべし。この心をおこすに至らば既にその人は、半は魂をみがきあげたる人なるべし。慈悲の心に変ぜらるるは即ち無言詞界の力による。故に慈悲の心をおこすに到らばその人は無言詞の力が現はれたる人なりと思ふも差支なからん。
    
            未知と既知の区別 


 汝等の世界の人類は未来を未知とし現在を既知として歩みを続け居れど、全宇宙を作りたる神はその悉くを知るによって、神には未知と云ふもの一としてあらざるなり。汝等諸子は朝にめざめ夕に眠る迄の短時間に於てすら、未知の事柄余りに多くして為にその一日の事柄すら知ることを得ざるならん。諸子は未知の連続にして限りなき世渡りをなし居るが故に危ふし。我等も神にあらざるが故に知らざること多くあるなり。されど諸子の如く迷はざるが故に誤ちを犯さざるなり。全宇宙を知るものは神より他になしと云ふも過言にはあらざるなり。我等も軈て神の座に移さるればその時はじめて、未知を既知に変ることを得るなり。未知日記に於てすべてを我物にせよと語りしはこの理あるが故なり。我ものにあらざるものを我ものとせよと語りしは、すべてを未知として取り扱はず、既知として交はれよとの意味に他ならずと知るべし。世の中の事柄を広く見聞して理解するは、すべて未知を無からしめんとの為なるべし。未知を既知に変ればすべては我ものとなりたるならん。
 徳、弧ならず、隣在りの比喩もあり又袖すりあふも多小の縁と云ふ言葉もあるなり。是等も皆未知を既知に変ゆれば彼は我となり、我は彼となる。然して相寄り相助けらるるも未知を既知として、すべてを我がものとなしたるに他ならず。彼は我なり、我は彼なり。故に我ものにあらずと云ふことなし。是等の例は未知日記にも記されあれば読者は既に承知なし居る筈なり。くだくだしく述ぶるの要もなからん。慈音は既に天界の様を見聞して汝等諸子の未知と思はるることを既知に変へたり。然して五大鏡の原理をも把握して、人類の進化の姿をも見聞したれば、是を我ものとなすことを得て来世は迷はず、己が望む所己が求むる所を見定めて、軈てはその方向に進むならんと我等は信ずるものなり。故に慈音は生死の明らめをなすことを得て、唯信仰の道を迷はざる用心をなし居るに他ならず。然して彼自らと思ひを同じくする人を、一人にても多からしめんとことを思ひ煩ひて、其のみ我等に対して願ひをなし居れど、己自らの願ひはなし居らざるなり。汝等諸子は唯一時の迷ひに充たされて、不安のうちに日々を送り居る事を見るに忍びざるが故に、慈音はその未知を既知に変へさしめんことをひたすら願ひ居る心は慈悲とも見なされ、又慈愛とも見なさるるなり。唯一時の思ひやりにてはあらざるが故なり。思ひやりの心が進み行く毎に、その思ひが次第に重ねられて厚くなり、然して慈悲慈愛の心に変じ行くことは、即ち未知が次第に既知に変じ行くに等しと思はば、ここに何か大なるさとりを得る一策ともなるならん。

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