覚者慈音197  大霊界  大霊界とは神の世界か  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                        NO149
 大霊界とは神の世界か            その6                                                  教主寛大 講述


 地上の水は水蒸気となりて上昇し雨となりて下降し、然して地上とと空間とを往来なし居れど水は尽きることなきが如く、人間の霊魂に於ても是に類したる具備あるによって、魂は転々として全宇宙を廻り居れど尽きることなく保たれ居るなり。故に不滅なり。恰も水の如し。汝等はこの理より先づ大霊界とは如何なる所かを考察し見よ。不滅の魂なるが故に、各所々々に転々として永久に迷ひ居りては魂としてをちつく処なく、不定の一路を廻転する他なかるべし。さればこの不滅の魂を安定せしめて、永久不変の処に居を定めしめずば唯々迷ふの他なかるべし。水蒸気となり雨となり、地上と空間を往来なし居りては、何日かは安住すること難からん。されば一定の場所の無きかと云ふに、求むれば必ずや発見することを得るならん。その定まりたる処の何処かを求めざるべからず。果して斯る処のありや無きやについて考へを廻らさずば迷ひはいよいよ深刻となるのみ。徒に年月を空費なし居りては到底望を達することは困難なり。是を知る我等は諸子を誘ひて迷はしめざる安定の位置に導き入れんとして、斯くもくだくだしく筆を運ばせ居るなり。無言詞界を離れて更に大霊界の下門に移さるれば、ここに初めて自覚することを得て、迷はざる安定の地に移さるることを認知するなり。自ら知り自らさとる底の境地に達することを得て、はじめて安心の力加はり此処にはじめて己がおちつくべき場所を、選択することを得ると承知せよ。汝等諸子の心の迷ひは即ち道を歩み居ると同様にして、謂はば迷ひは道を歩み居るに等し。迷ふと云ふも迷ひなり。歩を運ぶに到達すべき処を知りても、行くべき道の定まらざるが故に迷ふなり。謂はば空路のなき空路を飛行するに等し。空路定まりて飛行せば迷ふことはあらざるならん。されど空路を知らざるが故に迷ふなり。迷ふと云ふも歩みならん。
 汝等諸子は日々歩みを続けながら右往左往して唯々迷ひのみ深くなし居るが故に、疲労のみ加はりて歩みは進まざるなり。されば我等が教ゆる空路を黙々として歩みを一歩々々は正確なる方向に向ひ居るが故に、危きことなく迷はずして大霊の下門に入ることを得るなり。大凡無言詞界の様を見聞したるものと雖も、その正しきをさとらずば大霊界の下門には入ること困難なり。何となれば無言詞界の姿はあまりに範囲広くして、稍もすれば誤視誤聞することのあるやも計られざるなり。是等は信仰者の程度による。信仰の力厚ければ誤視誤聞はあらざれども、信仰の力うすき者は稍もすれば、誤視誤聞することあるによってなり。信仰の力深きものは身心共に一体となりて、歩みを進むるが故に迷はず。されど信仰うすきものは身心そなはらざるが故に迷ふなり。例へば的を定めて弓を射る時、心整ひたる者ならばその的を射あやまることなく適中せしむることを得れど、然らざる者は的をあやまるが故に射損んずること多し。是等は技術拙きが故なりと諸子は考ふるならん。もとより然り。されど我等の云ふ処は技術の巧拙を論ずるにあらず。技術巧みとなるは即ち信仰の程度すぐれたることを意味すると承知せよ。身も心も一致すれば、的を射あやまることなく適中せしむるなり。心のまなこ肉体のまなこの一致して、的にあたる故に適中す。技術巧みと云ふは信仰の力備はりたる人なり。的を外るるは身心の信仰が一体ならざるが故なり。技術すぐれたる人は信仰の強き人なるが故なり。信仰と云ふことに対して諸子は誤解なし居るが故に、是等のことを聞きて意に介せざるは、信仰と云ふことの是非を知らざるによる。百発百中せしむる程度迄信仰を鍛え上げるにあらざれば、優れたる技術者とも云はれざるなり。又優れたる信仰者とは云はれざるなりと承知せよ。信仰とは先づ斯くの如き底のものにて、唯神を信ずるとか仏を信ずるとかのみにては其は覚りにあらず。知るにすぎざるなり。知りたりとて覚らずば何の価値もなからん。知りて悟る底の信仰者にあらざれば何の甲斐もなし。神を知り仏を知らば其等に対して凡てを任す底の歩みを進めなばここに初めて真のさとりは得らるるなり。                                                           

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