覚者慈音181  大霊界  心に伝ふる無言詞と魂に伝ふ無言詞  その五  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の三                        NO134 


 心に伝ふる無言詞と魂に伝ふ無言詞の相違    その5                                                  教主寛大 講述


 是等の点より考ふる時信ずると云ふ力の優れたる意味を諒解するならん。人間にありては神を信ず。其は神は不善を嫌へど悪は厭ふが故に、信じ居らば善に化せられると云ふ信念のはたらきが、強くなるに従って身心共に安らかとなる。悪魔を信ずればすべての行ひは悪に偏る故に、身心共に傷くと云ふ観念より悪魔を厭ふなり。是みなすべて己が心のはたらきに基因す。されば悪魔とは如何なるものか。悪魔は何処にありやと聞かれなば知らじと答ふの他なからん。神に於ても亦然り。神を求むるも悪魔を求むるもすべては己自らなるべし。己自らの心持ち次第にて神とも交はり悪魔とも交はることを得るは、すべて汝の心持ち次第にて如何にともなるならん。神と云ふも悪魔と云ふもすべては言葉なり。その言葉を奥深く尋ね求むることによって、その範囲がきはめて広く深く己が心に滲み入り来りて善ともなり、悪ともなるはたらきが拡大して尽きる所なく、進み行くことは異論の余地なかるべし。すべては汝が心にあり。その心を奥深く探り行けば何か其処に深くものの潜在しあることに気附くならん。心によって魂を見つけなば、その魂こそ即ち神ともなり又悪魔ともなるなり。人の性(さが)は善なりと雖も用い方によっては悪となる。もし人の性が善なりと云ふならば悪と云ふものなき筈なり。依って我は云ふ、人の性は悪なるやもはかり知れざるなり。是を要約すれば人の性は善にもあらず、又悪にもあらざるなり。然らば人の性は何なりやときかれなば、人の性は純潔にしてけがれなしと云ふの他なかるべし。善悪は垢なり。濁りなり。善悪をとり去らば即ち純潔となるによってなり。この純潔なるものは人の性なるべし。善にも染まず、悪にも染まず、善悪を超越したる純真こそ望ましけれ。清浄無垢の純真となれば明鏡の如く何物をも明らかに映しとることを得るなり。明鏡は明らかにものを写しとれどそのものには染まらざるべし。魂を明鏡に迄研ぎあげてすべてを写し取らば、無言詞は明らかに是を映ず。汝等諸子は神前に向ふ時姿は見えざれど己が姿は鏡に映るならん。その時その鏡を見れば汝の姿が写し出されて美醜を現はす。神前には唯一枚の鏡あるのみ。神の姿は見えざるべし。是は汝等諸子に対しての教訓として、日本の神道宗教が考案せられたる導きなり。是等もすべては無言詞の導きに他ならず。故に日本の神道者は云ふ。かがみのがを取れば即ち神なりと。是みな無言詞の伝はりなり。

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