未知日記講話集  又一方無言詞界の方向に進みたる者は如何に その二


未知日記講話集   教主寛大講義


 
 如意界と無言詞界との間の予備道場に於ては、謂はばある一種の未来学研究所とも云ふべき場所にしてこの所に於て行ずる事柄はすべて感じに依って、空より実を知る方法を学するなり。無言詞の問ひに対し、無言詞の答へを以て是に当り、然してその実否を確めて、森羅万象悉くが感じより事実の真相を確むることを得る、不可思議なる研究所と思はば可ならん。無言詞の問に対し無言詞の答へをなしたる時、その実否は立体鏡によって現はさるるにより、明らかに正しき答へなりしか、正しからざるかを知ることを得るなり。斯くして推理力を延ばして、宇宙全体の増減変化を、明確に認識することを得ると云ふ学問所なるが故に、この所にて学業ならずば無言詞界の門に入ることを許されざるなり。予言とか予知とか云ふ如き不確定の事を学するにあらず。すべてを推理して確言確知ならざれば、無言詞界の門には入ること難し。不確定予言予知は理に合はざるが故に、誤謬多けれど、確定なしたる確言確知は理に合はずば、適中するものにあらず。故にこの場所にては無言詞の問、無言詞の答へ対し、その感じかたを確定せしめんがための道理を、研究する場所と知らば可ならん。故にこの所に於ては立体鏡の原理を究めて、己、自らその立体鏡を自由に、組立得る力すらそなはるなり。
 汝等衆人の世界の易学とか哲学とか云へるものも、謂はば是等に属す。さりながら易学哲学は大旨適中せざること多し。是未だ正しからざるが故に外づるるなり。理に合へば決して誤つものにあらず。道を明らむる云ふは確定ならざるべからず。確定ならざるは空想にして実想ならざるが故なり。空は実を生む原動力なれば、空は実に変へるにあらざれば確定はなり難し。推理力を延長してその理が正しければ、必ず空は実を生むなり。理に合はざることを空想すとも、其は何等の価値もなし。予備道場の中にはすべて理より理を以て教へをなす故に、空は実となりて誤つ事なきなり。無言詞の問ひに対し、無言詞の答へをなし居るもの、理に合はざる事を考ふるならば、その誤ちを正して是を導く。例へばこの種子は如何なる芽を出し、如何なる姿を整へ、如何に成長して如何なる実を結ぶやと云ふ無言詞の問に対し、この種子の成立は是と是との化合によりて組織せられたるものなれば、それ等の作用の力が斯くなるによって斯かる姿となり、然してその姿より更に是と是との化合物が斯く働くによって斯る花を開き、更にその花の中にかくかくの集合物が斯く働くによって斯る結実を得るなりと云ふ如き、確かなる理論を以て答ふるならば、その答へは確定の理に合ふが故に正確となるなり。すべて皆斯くの如き確定の問答なれば、学する者の智識はいよいよ加はり、森羅万象悉くの道理を認識することを得るなり。是等を空より実を生むと云ふなり。是全く空想に似て空想にあらず。実想なるが故に確定せらるるなり。我かく語らば汝等衆人は云ふならん。ミキョウ、セイキョウ、テッシンが何故我等に対して不確定語を用いしやと詰問するならん。彼等は汝等衆人に対して不確定語を以てせしは、他に意味あるなり。彼等の不確定語は、不確定語にあらず。確定したる言葉を不確定語に変へて、謙遜的態度を示したるに他ならず。其は汝等の智慧の程度を知るによって、方便に用い居るにて彼等の言葉は決して誤謬を伝ふるものにあらざる事と承知せよ。曖昧の如く思はるるも汝等衆人の導きのために、努力し居ることに感謝せざるべからず。ミキョウ、 セイキョウ、 テッシンは予備道場はもとより無言詞界のすべてを修得したるものにて、彼等の言葉は嘘言偽はりはあらざるなり。

×

非ログインユーザーとして返信する