未知日記講話集   如意界終わりて後は如何 五   教主寛大講義

如意界終はりて後は如何   その五   教主寛大講義



 総じて人は筆舌の及ばざる観念に囚はれて、心の中に何かしみ入りたる時、名伏すべからざる思ひに感激する例は少なからずあるならん。その時涙の湧き出で来る程、喜悦の感じに化せらるるは歓喜の拝みとなり、怒りに燃ゆれば怨恨の拝みとなる。さればその両方共に拝みの部に属す。拝みとは感謝のみにあらず。憎悪にも拝みあり。所謂かなはぬ時の神頼みと云ふ境地に至らば、拝みは頂点に達す。言葉ありての拝みは未だ完全なる拝みにあらず。拝みは無言詞ならざるべからず。無言詞の境地に至ってはじめて真の拝みとなる。即ち自らに拝みあれば他にも拝みあり。彼に拝みあれば我に拝みあり。彼我一体とならざれば正しき拝みとはならざる道理あるべし。ここに心せざるべからず。
 善悪邪正共に拝みなり。是を個々に区分しての拝みは一方に通じて一方に欠くるところあり。故にすべてに通ずる拝みにあらざれば徹せず。徹せざる拝みは何れかに欠くるところあるによってなりと思ひてよくよく学すべし。前方に心を移せば後方は空虚となる。右に移せば左に隙あり。上方に仰がば下方はくらし。故に全身に漲る拝みにあらざれば通ぜず。全身に漲る拝みとならば隙間なきの故に八方十方悉くあますところなからん。恰も太陽の如くならざるべからず。太陽は八方十方を照らせど地球には明暗ありて、表面は明るけれど裏面に影を有す。故に地球の如き拝みとならざるやう心がけざるべからず。即ち肉体を有する人間は肉体と云ふ動物性のそなはりあるによって、影となりて光を受くるあたはず。動物性をはなれて人間性に化したるものは、恰も太陽の如くなるによって全身共に悉く光に浴す。諸子はこの理をよくよく翫味せられんことを。汝等衆人にはいささかむつかしき論説にして認識すること難からん。是は悟したるものにあらざれば此理を究むることを得ざるによってなり。くらきが故に迷ふなり。光明に浴して明るければ迷ふことはあらざるならん。暗き心は光を受けざるが故なり。光明に浴せば焉んぞ迷ふことあらんや。汝等衆人の思ふ光明は光を連想するならん。我等の語る光明とは無光の光を云ふなり。無言詞界のある以上無光明の光もあるなり。光なき光、音なき音、言葉なき言葉に化するにあらざれば真の安楽境は得られず。汝等衆人少時(しばし)黙せよ。覚者は活眼活耳を開きて見るべし。聞くべし。我、悟せる者の為にこの事を語る。悟せざるもの聞くとも認識すること難きを知る。故に黙せよと云ひたるなり。動物界をはなれて人間界に入り、然して悟りの道を明きらめて覚者となりたるものにして、此理を知らざれば、未だ覚者の価値はあらざるなり。我、汝等が修行の程度をはかるものさしとして、此言葉を語るの程度に止むべし。


 さて話をゆるやかにして汝等衆人の耳に伝へん。拝みとは道を照らす燈火の如し。その力の程度が加はるに従ひて光明の力はいよいよ加はるものにて、先にも述べし如く有難しと思ふ心が忝なしに変り、更に進んで勿体なしと云ふ念に移され行くは、拝みの力加はるによって、燈火の光は増大して光明の分度が、益々加はり行くに等しと知るべし。
 気と云ふも光明なり。音と云ふも光明なり。意志薄弱なる人は気力にぶし。傲慢なる人は気力つよし。故に意志薄弱ならば光はうすく、傲慢ならば光は強し。気力旺盛なりと云ふは光明の強きを現はすと思ふも可ならん。悪気強ければその光明は悪に輝く。慈愛の気漲らば、その光明は救ひとなりて輝く。斯くの如く光明とは光のみにあらざることを知りて学さば可ならん。拝みも気なり。気なるが故に光明なり。この理より推測すれば汝等の心にいろいろの感じを、をこさするも皆光明の徳にして、その感じと云ふは光明に照らされたる現れなりと知らば可ならん。無言詞は気の光明なりと考ふるも差支へなし。是等の事柄はすべて如意界に於て教へらるる学問なりと知るべし。斯る事のみにては未だ無言詞の真の信を究むること難し。是より語るところは真の無言詞界の門に入らざれば、理を究むることを得ず。汝等衆人道は尚遠し。早く動物界を脱け出て、人間界に進む力を備へよ。半動物半人間にて一生を過す勿れ。半動物半人間にて終らば悲しむべき未来に移されて、選魂界にも入るを許されじ。
拝みせよ。拝みの力は広大無辺なり。
 我等と雖も日々拝みを休みしことなく持続なし居るなり。何を目的として拝むとか、何に希望を抱きて拝むとか云ふ如き片寄りたる拝みをなす勿れ。
我、汝等の拝みを見るに片手に数珠を持ち、片手にものを殺生しながら拝み居る人あり。斯るものは拝みするにあらず。時間つぶしの悪戯者なり。口に念仏しながら人を謗る。是等もみな空虚なる拝みにして、真の拝みにあらざるなり。此世を安楽に暮らして未来も安楽に暮させ給へと云ふが如きも、信仰の拝みにあらず。この世の安楽とは肉体の満足を願ひ、来世の安楽とは魂の安らかならんことを願ふならん。是等はいたづらの拝みに過ぎざるなり。汝等衆人の拝みはすべてこの類の信仰より、御都合主義の拝みをなし居るによって、真の信仰を得ることを得ず。動物性を抜け出づることすら難からん。早くめざめて真実正しき信仰者とならざれば、人間界に入ることを許されざるべし。いたづらの拝みをなす勿れ。いたづらの拝みは信仰にあらずして、迷信となるなり。

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