未知日記講話集 如意界終わりて後は如何 四  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界  巻の壱                                NO 21 如意界終はりて後は如何   その4                            
                     教主寛大 講述



 如意界に於て種々様々の事柄を考ふれば、意の如くになると云ふも、すべての原理は悉くこの理に基く。我と慈音との場合、我は無にして慈音は有なり。されど我の無言詞は慈音に伝はりて、有言詞となりて現はる。是距離を有せざるが故なり。もし距離あらば通ぜざるべし。我と慈声は距離あり。距離あるによって通ぜざるなり。慈声にして距離を作らずば我と彼女は一体化せん。故に慈声が拝みすることによって距離を取り去らば、我と一体化することは恰も慈音と我との如くならん。ここに於て拝みは大切となるなり。もとより慈声と我とはえにしによって一体化なすべき居にあるに不拘、慈声は有形の世界を観望して、無形の世界にまなこを移さざるによって、恰も遠近の友の如くなりて距離を作り居るなり。この理を解しなば慈声も覚らざるべからず。覚りとは些少の距離をとることを云ふ。こだま会の会員が慈音の処に歩を運ぶも、距離あるによってその距離を短縮して、慈音の傍らに近づかんとなし居れど、慈音と会員が距離をはなせばその傍らに到らずとも通ずるは当然なり。慈音は距離を取りたるが故に、我等と自由の交はりをなす。是差をとりたるが故なり。差をとれば無言詞は働く。取らずともはたらき居るなり。されど遠近の区を有するが故に、通ぜざるのみ。汝等衆人ここに考慮を廻らすべし。早く距離を考へざる底の信仰を得よ。敢へてむつかしき理論を考へて彼是迷ふの要もなからん。理は一なり。二あるにあらず。余りに深く考へをめぐらして横道にふみ入るが故に、益々距離は遠ざかり行くなり。されば拝みすると云ふ一つの方法を考案して、それによってその道を歩み居らば遠きも次第に接近して、はじめてその居に達すべし。他に心を移すは迷ひなり。道は拝みなりと心得て進むべし。
 ここに一つの例をあげて汝等衆人がために、行ずる方法の資料を与へん。其は他ならず。慈音が肉体をはなして精神と分離なしたり。是距離を作りたるなり。是は分身の法の原理を応用したる故なり。一個人が互いに距離を作ることさへなし得らるるなり。慈音が肉体を度脱して魂と分離なしたるも、是には理由あり。肉体を有せば魂はその肉体に束縛されて自由のさまたげを受くるによって、魂に自由を与へんがために肉体をはなして距離を作りたる迄にて、別段不思議の事にもあらざるなり。慈音は覚者にして、慈音の肉体は是に従ひ居るのみ。慈音の本姓は四郎と云ふ。慈音、曰く。四郎は哀なるものなり。いたはらざるべからずと語り居るを我はよく知る。
 分身脱魂の法を自得すれば、斯る事さへなし得らるるなり。己にして 己に距離をつくる法を会得すれば、己と己又一体化することも亦自由なり。所謂己は己にかへり、己は己より去る。即ち出入りは束縛されざるが故に、自由なるによってなり。四郎は死しても慈音は死せじ。汝等衆人に於ても斯る事のなし得る具備は有しあるなり。慈音はむづかしき修行をなし居るにあらず。唯拝みを継続してその拝みの力によって、斯る自由を得たるにて別段意とするにも足らざるなり。是は我等の眼より見る時の事にて、当事者の慈音にとりては、苦肉を重ねて漸くこの居に達したるなり。行ずる者は労苦に労苦を重ねずば、目的は達し難し。されど行じ終りてはじめて労苦の影は没す。労苦なければ安楽ならん。この例に徴しても明らかなる如く、汝等諸子はこの例をよくよく思惟せば、何かそこに大なる真理を発見するならん。故に参考までに是を語りをくなり。現在の慈音は安楽なれど苦痛を重ね居るものは四郎なり。故に四郎は不憫なりと慈音は是を憐れみ居れり。修行者は山間僻地にありて肉体に鞭打ち苦むるも、脱魂の後肉体の苦みを柔らげしめんがための方法にて、別段他に意味はあるにあらず。肉体に労苦をあたへて忍苦に堪へ、それによって魂を脱せしめんがための方法にすぎざるなり。されば慈音の場合に於ては如何にと云ふに、慈音は唯拝みによって道を得たるのみにて、肉体に対して労苦を与へざりしため、今尚肉体に障碍を起して苦みあるは、是又是非なき事なり。もし慈音にして肉体不具ならざりしならば、今日のさとりは得ること難かりしならん。是を思ひ彼を思ふとき何れが是か、何れが非なるかを汝等衆人の心に於て判断せよ。是は衆人の心に任せん。

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