覚者慈音1502   未知日記 第九巻   因果論  人身篇一      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1502
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
第三十七    信力を厚うして気光素を作れ
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
                2019.10.18


 信より出でたる念なるが故に、信を先にするは当然なるに不拘、世人の中には此理を明らめずして信と念との区別すら知らず、為に念を先にして信を影になし居る人は少なからずあるなり。世には信よりも念の力自づとそなはり居る人も少なからずあるなり。医学上にては是等の人を先天的素質と称し居る類の人を云ふなり。此種の人は血族性関係より生れたる人にきはめて多し。信なくして念のみ強くはたらく性質の持主なるによりて、念の力は信なくして働く特殊性を帯びたる人なり。信を圧力とせば念は引力となり、念を圧力とせば信は引力となる。是信と念とが陰陽の関係なることのみ世人は知り居らば其にて可なり。気光素と光気素の関係はこれらを巧みに応用することによってはじめてその効果を現はす。されど用法を知らざるが故に唯野育ちとなり居る他ならず。所謂信と念とをつなぐ接続根のはたらきを静止なし居りてそのままあそばせ居るにすぎざる故なり。是は所謂放電の開閉器を入れざると同様と思はば可なり。接続根をはたらかすことを考ふれば自づと陰陽或は陽陰調和の法は悟ることを得ん。又光素と気素とを巧みに塩梅してその用法をあやまたずばこれは気光素ともなり、光気素ともなることを工夫せば、自づと認知悟ることを得るならんと我は思ふなり。気光素と光気素についてはセイキョウ貴尊が詳細説明せらるるにより此書には多くを語らず。唯その形のみを基礎的予備智識迄に参考として掲げをく事とせん。
 世人は早くこの引力圧力の中和法を理解したしとあせり居ることを我よく知れど、是は軽率に考ふれば方法にも誤ちを生ずる恐れあり。よって苛たたず静かに我が説明をきくべし。然して徐々に工夫の道を開らくことに留意せば可なり。ここに注意すべき事あり。そは他ならず。偶像崇拝に関して我こだまの其如しと説きたるに対して世人は疑いを抱き居るならん。何となれば偶像を拝するも我にして、又かへり来るも我なりとの意味より、世人には其等に関して不審することなきや。そは他ならず。我より出でて我にかへるとせば、我の願ひし事柄が我に依て得られしとの理は解し難し。何となれば我の願ひしそのままこだまして我にかへるは理なるべし。然るにその願ひは叶へられたりとせば、是我より出でて我にかへりとは解し難しとの疑ひを生じ居るにてはあらざるか。もし願望が叶へられたりとせば、即ち偶像は我に力を与へられたるにてはあらざるかとの、不審を抱くにてはあらざるかとの質問なるべし。世人の思ふ如くならば偶像に力ありとの結論に達するならん。されど事実は然らず。この事については信力の処にて述べおきたる如く、小我より大我へわたる法なるにより所謂小我も我なり。大我も我なりと語りおきたることを参考として考ふれば、自づとその理は解することを得んと思ふが如何。かく語るとも世人には未だ解し難かるべし。故に先づ講をかへて此論旨より気光素或は光気素の起る理をくはしく語りて誤解をとかん。

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