覚者慈音1491   未知日記 第九巻   因果論  人身篇一      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1491
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
第三十四    引力圧力を全からしめよ
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
                2019.10.11


 今欣情が心に我来り居れど欣情は圧力性の強きが故に我を知らず。又我を見ることあたはざるも是外部に囚はれ居るが故なりと考へなば、是を変へて引力へ引力へと己が心の中に我を引き入るる拝みをなし、又その心に変へなば即ち我を見ることを得るなり。見ると云ふは即ち感ずることを云ふなり。我は姿をつくりて来り居るにあらず。唯感ぜしめ居るが故にその感じは慈音に通じてかく筆は運ばれ居ることを 未だ欣情は心づかずして唯迷ひを深くなし居るは、即ち外部に心をむけ居る圧力性の方法を用い居ることを証明すと我は教ゆるものなり。引くと押すとの相違はかくも微妙なるはたらきをなす。例へば汝友を招かんとする時、彼汝の家を知らざれば汝は彼に行きて彼を我家に導き入るるならん。彼汝が家に入るるをがへんぜざる時、強いて入るを欲するならば彼が手を引きて家内に導く底の行ひも敢てなすこともあらん。是即ち引力性にして圧力性は従って伴ひ居ることを悟らざるべからず。友を我家に導くは外部より内部への方法なるべし。拝みの方法もかくなすことによって引力は来り現はるるものなるが故に、圧力を先づ止めて、引力のみの拝みをなさざれば其にて可なり。
 太陽の光は汝の家にも輝く。されど戸をとざせば光は侵入するものにあらず。戸を開らきてはじめて光は侵入す。戸をとざすと云ふは即ち圧力に相当す。開らくは即ち引力となる理をよくよく考慮せよ。さらば光明は汝の心の中に輝かん。故に拝みする時は我心に来れよとの思ひを貯へて拝みせざれば通ぜずとの結論に達し居ることを知りて行ぜば可なり。例へば手を合はせ頭を下げて拝みする姿を我等見る時世人腹より頭へ気を上らせ居るにてはあらざるか。是圧力の拝みなり。されば引力の拝みとは手を合はせ頭を下げて拝まずとも、頭を腹の方向に引き入るる底の拝みにしてはじめて引力となることに工夫せば、自づと拝みの方法は理解することを得ん。鍛冶師が用い居る鞴(ふいご)を研究資料とせよ。手許に引けば前面のバネは開らかれて空気は侵入す。前面に押せばバネはとぢて空気は侵入することあたはざるべし。此理より考へなば自づと理解することを得るならん。我その後を多くは語らじ。



註googleより
鞴(ふいご)
火床のすぐ横に備え付けられている送風装置が「鞴」です。漢字に革偏が使われているのは「日本書紀」や「古事記」に、鹿の皮をまるごと剥いだ「天羽鞴」(あまのはぶき)という鞴が記されているからだと伝えられています。
鞴の種類は、大きく分けて2つ。足で踏んで風を送る「踏鞴」(たたら)と、手動による「差し鞴」(さしふいご)があります。
刀匠はおもに長方形の箱型で、手前の柄を前後させて風を送る、差し鞴を使用。鍛錬を行なうには、鋼が沸くまでは一定のリズムで風を送り、鋼が沸いてからは風を強めたり、弱めたりして鋼の温度を細かく調節しなければなりません。

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