覚者慈音1394  未知日記 第九巻   因果論  人身篇一     インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1394
未知日記 第九巻 因果論       
第一の巻
人身篇一 
     
         インショウ、ミキョウ貴尊 講述                     2019.9.05

 因果論 第一巻
 人身篇
 緒言


 大凡相対自然の世界に住める世人の身上には因果の関係はまぬがれじとは云へ、我、今より世人に対して語らんとなす因果の法則はいささか世人の考ふるとはその意味を異にす。種子を蒔きて実を結ばするは是即ち因果なるべし。種子なくして実を結ぶ法やある。つらつら観ずるに世人の世界は複雑多端なる如く見ゆれど是を統括して観察なさばその理悉く一にす。所謂雨降りて地をうるほし地より上昇して天をぬらす水蒸気となりて又地にかへる。さらば水は何処より来り何処にかへるかすら判明なし難き姿なれど、天地一体として考究すればその因その果の区別は判明せざるべし。鳥とたまごの関係の如し。何れを因とし何れを果として考究せば可ならんやに迷ふならん。すべての道理はみな是等の例に基きて工夫を要す。我の今より講ぜんとする因果論はここにその意義を存す。因果と称する文字の意味は余りに範囲広くして却て世人を惑はすこと多し。此言葉は余りに簡単にして意味はきはめて広きを以て世人は此語に馴れて日常の談話にすら何事に対しても使用なし居る為、却て因果の何なるかをすら判明せざるに至らしめたること多からん。言葉には簡単の中に意味の広くして通ずる名語多し。
 例へば因果とか或は因縁或は不断、或は油断など云へる短短かき中に長き広き名語多きためややもすれば、その言葉に匹敵せざるに至る迄使用せらるること多くして、却て真の意味に合はしむる事すらなし難き例は少なからずと思ふなり。善因善果悪因悪果と称してよき種子を蒔かずして悪き実を結ばせ居る人の多きを見る。すべて相対なる世人の世界には斯くもあやまてる考へより、しばしば迷道に陥りがちなるは言葉の誤認より惹き起す結果なること多し。仮に貴尊方が講ぜられし今日迄の未知日記の説を聞くに於て先づ語らん。
 自在論より感応論の終り迄の七巻を因と見なし、光明論十巻を其経路となし更にテツシン講録より三世と四世論の巻末迄の八巻を果と見なして研究せば、因果の道理は世人の考ふる因果と我等が思ひとには大差ある事に気附くならん。
  善因には善果あり悪因には悪果ありと語り居てこれを事実の行為にうつし居る人はすくなし。然して善因より悪果となり、悪因より善果となることあらば因果の法則は矛盾なしたる如く考へ居る人も亦すくなからず。例へば世人はよき種子を購ひて地上に栽培しその稔りがあしければ種子に罪を帰せしむることをなせど、その栽培のあやまちを己があやまちなりしとして気附く人は又稀なり。悪き種子を蒔きて栽培に努力しよき稔りを得せしめるも亦すくなからず。悪き種子も心して栽培せばよき稔りを得る報もあらん。是をなさずして種子に罪を帰せしむるは是即ち因果の道理を弁へざるによつてなるべし。因果の道理はここにあり。悪き種子にてよき稔りを結ばせてこそ造物主の慈悲は徹す。然してその現はれは悪を善に変化せしむる情(なさけ)なるべし。因果の法則はここにあり。善因善果悪因悪果とのみ考へて、己自らが非を悟らずば悪因悪果の苦しみより度脱することは難からん。是を変化せしむるは即ち法なり。己自らを唯かこつのみにて法を用いずば悪因悪果は永久にしてその苦も亦永遠なるべし。世人は因果の道理を知れる如く又知らざる如き感ありて因果をかこちて唯其が度脱と変化の有無をわきまへずして苦悶し居るに依て、我因果の道理を語り然してその度脱と変化の法を教へて世人の苦を救はんと思ふによりここに此論説を掲げ修養の資料に供せんとす。されば今後の説より因果の道理を深くきはめて世人の考ふる因果の悪夢を覚醒されんことを !

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