覚者慈音1371  未知日記 第十巻   帰途案内記  巻の四     最終の巻 セイキョウ貴尊講述

覚者慈音1371
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の四
最終の巻 
二流界、仮称霊空界


              セイキョウ貴尊 講述   
                 2019.8.28


 心眼に映るものの美点は見る程深き味を覚え、聞くものも亦同様にして見聞し尽すこと如何に年月を経るとも、其美をきはむること難ければ其程楽しきこことはあらざるべし。二流界はそれなり。如何に生活なし居りても倦怠を感ずることあらざる土地なり。然して何等の危険もなく何等の苦痛もなく千変万化なるによって、その時々の楽みは永久尽きざる世界なり。世人はかかる事を聞きて如何に聯想すとも、如何に空想すとも、真相を認識することは得がたからん。空海より上陸したる小児が学ぶ世界、次には中年の世界、壮年の世界老年の世界、その年齢に従ひて居を異にす。かく語らば世人は亦も時間を考ふるならん。
 少年期中年期壮年期老年期と語り居るは世人に理解せしめんがために資したるにて、是に数の年齢を指したるにあらず。所謂智慧の尺度を指したるにて、数とか時間を云ふにあらずと知るべし。唯肉体の組織がいささか智慧と併行なし居る姿にして、壮者と老者の区別は眼によって定まるものにあらずと知るべし。世人の世界に於ても三歳の翁あり、百歳の小児ありと云ふにてはあらざるか。所謂三歳の翁百歳の童子の意味より、我等の説を聞かば自づと察する事を得るならん。
兎角人間は姿形によって定まるものにあらず。古来日本に於て武家時代の頃影武者と云ふ己の姿に似たるものを従へて、敵の眼をくらませ居たりしと聞く。されど武将は武将にして影武者は影武者なり。何時かは看破されてのがるることを得ざるに至る。

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