覚者慈音1355 未知日記 第十巻 帰途案内記 巻の四 最終の巻 セイキョウ貴尊講義

覚者慈音1355
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の四
最終の巻 
二流界、仮称霊空界
               セイキョウ貴尊 講述                                         2019.8.23


 例へば女子の男性に、或は男性の女性に魅力を感ぜしむる如きは、即ちこの品位応用の法に合ひ居るなり。もとより法を知り居るにあらず。其は自然に与へられたる一種の特性にして、其特性の働きが他をして種々様々の感じをなさしむる具はりを、動物に限らずすべての人種にも有し居ることは、世人も承知なし居るならん。人格の如何を計るにはこの事柄をよくよく研究なさざれば、魂の存在は知ること難し。是等の事柄を知らんとせば、先づ己が心を空にして、然して魂に任せて働かせる方法と、今一段深くほり下げて霊に化せしめる方法の、二種によって測定せざれば、正しき判断はつき難し。是等の事柄の詳細はテッシン貴尊が語らるる由なれば我は省略す。
 然しながら一般世人の研究は心によって見ること多し。眼より映る感じ、耳より聞く感じ、又肉体の触覚に感ずるなるが故に、ものの程度を計ること難し。品物の価値は品物によって定まる。されど人間の価値は何によって定むることを得るや。
 例へば金の価値は数によって定められ、その数を他の品物に応用して彼是評価なすならん。然るに骨董品等に至っては、甲乙丙の人々が皆其々異なりたる価値を定めて、皆一様ならざるべし。人格の程度も骨董品の其の如く見る人の眼によって相違あらん。肉眼にはかくも狂ひあり。何かは知らず自然に頭の下る底の人を、世人は尊しとして評価なし居るならん。ここに思ひをはせよ。然してその中より何ものかを探り出さざるべからず。我かかる言葉を用ゆるは他ならず。世人を迷はせて然してその中より一種のさとりを得させんと考ふるによつてなり。文意などに囚はるること勿れ。文意の拙きは我よく是を知り居れど、斯くせざれば世人を導く方便とはならざるが故なり。我、若し空気を神なりと言はば、世人は空気に対して頭は下げざるべし。されどその空気の中に神の存在なし居りて汝の眼に映らじと聞かさるれば、一種の感に囚はれて空気を覚えて頭を下ぐることもあらん。ここに何かさとるべきものはあらざるや。 
 我等よく見る処なるが、世人の中に神を罵る人が他に見る人のなきかくれ場所に於て、手を合はせ居るを我等はよく見る。是等は何を拝し居るや。眼に見えざるものを探り居るにてはあらざるか。所謂空気を拝み居るなり。

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