終生忘れ得ぬ旅 2

 それは私が十八歳の夏の時だった。東京から奈良、京都を通り福井迄、およそ七八百キロ、二週間の旅程で自転車で一人旅をした。そのことを家族には事前に告げず、故郷の友人だけには、ひょっとして事故に遭うかもしれない、その時は頼むとだけ知らせておいた。私はバイトをして三千円で一番安いおんぼろ自転車を買い、所持金もほとんどもたず、寝袋と洗面用具だけを携え出発した。ツーリングとはおよそ縁遠いものでどちらかと云えば修行僧の巡礼にちかいものだつた。なぜなら名所旧跡を訪れようとする気持ちもなかったし、事実一度もおとずれていない。唯道だけを一日何時間も走りぬけただけだった。
 先ずは最初の難関である、箱根の山の急峻を自転車を引っ張って何時間も歩いた。汗と埃で顔は薄黒く汚れた。最初の一泊目はある保育園の運動場で寝た。夜空には光芒の天蓋宇宙が限りなく拡がり、物音ひとつしない静寂な夜だった。途中なんども夜の冷気で眼が覚めた。時計も持たず、今が深夜なのか、もうじき夜明けを迎えるのかそれすらわからず、またうとうと眠りに入ってゆく。綺麗な旅館の布団の中で安逸な夢をむすぶのもそれはそれ、野に臥して星降る夜を愉しむのも亦一興。古人の旅はこんなものだったに違いない。
 旅行期間中の食事はまともなものは殆ど摂っていない。多分食パンなどを走りながらかじってっていたんだと思う。学生時代はいつも金がなく朝昼晩それも半月ばかり、毎日インスタントラーメンを食っていたことがあった。味に飽きるので一種類ではなく、多品種を買い求めた。想えばあの当時の学生達は皆貧乏で、質札を結構ためて、それを壁に貼りつけ清貧を気取っていたものだ。旅行中は一日中、人との会話はなく、只走るだけの孤独な所業だった。翌朝は富士山ドライブウエイを走った。富士の裾野をぐるっと周回したけれど、余りに標高が高いせいか、五メートル先は濃い霧に覆われて全く視界がきかなかった。その霧は一ヶ所に留まるのでなく、激しく風に流れた。やがて昼近くになり、霧が晴れると、眼前に富士の威容が雲の上にぽっかりと浮かんでいた。こんな間近に見た富士はそれ以来今も拝んでいない。神々しい富士、そんな言葉がぴつたりした。その日は富士吉田市内の銭湯に入り、学校の校庭で寝た。
 浜松あたりで、軒先を借りて雨宿りをしていたら、中年の女の人が出てきて、私にことの仔細を聞く。おそらく乞食同然のふうたいをしていたのだろう。よかったら二、三日働いて行け、食事と寝るところ、それに若干のバイト料を用意しようということだった。まさに地獄に仏、そこは金属加工を生業とする家で、私は工場からでる金属片を台車に載せて処理する仕事を三日間やらせてもらった。風呂にも入れて貰い、食事も家族の人と一緒にさせてもらった。その家族と夜遅くまで色々な話をした。まこと月並みな言い方だが、そこで人情の温かさを思い知らされた。その晩、謝意を述べて、次の日の払暁奈良の月ケ瀬へと向かった。炎天下を走り、夕立でびしょぬれになっても走り通した。

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