終生忘れ得ぬ旅 1

 


おんぼろ自転車の旅


 現代にあの芭蕉の時代の旅と云うものを求めることは大変むつかしくなっている。それは現代人があまりにも旅に快適さをことさら希求するが為に、旅と云ふ概念は今日、もはや死語と化した。それが証拠に、私達は旅行しても殆ど記憶の大部は忘却の彼方へ押しやられてしまう。辛うじて写真があるから、回顧する切っ掛けにはなると思うが、でもそれはあくまで、ある刹那の一シーンでしかない。近来の写真技術の発達の為に、現代人は記憶を脳裡に焼き付ける能力を喪失してしまった。いいかえれば、人間が本来持っている映像記憶能力そのものが、文明の発達するのに逆行して退嬰化させているのではないか。


 古の人の旅は大変だったろう。悪路が続き、途中山賊などの追剥が待ち構え、まして地図も不完全で足だけが頼りだ。今も東海道の旧宿場跡には、旅で命をなくした沢山の無縁塚がある。将に古人の旅は命を賭しての旅だった。テレビの映像もなければ、写真もない。だから見たこともない名所旧跡には尚一層想いが募り、その印象を写真以上に深く脳裡に焼き付けたに違いない。芭蕉の旅を引き合いに出す迄も無く、一般に旅行と称するものよりも、旅の場合は印象がより鮮明に記憶に残る。それは基本的に心に記憶させるか、魂に記憶させるかの違いによるのだと思う。下手にカメラなどを持ち歩くのは、旅する人としては失格、邪道なのかもしれない。私達の旅行などは行き先はガイド任せ、トイレ休憩も運転手次第。今日どこに泊って、明日はどこへ行くかすら大体は知っていても細部については殆ど知らない。だから記憶が自然朧気になつて不鮮明なってしまう。金魚のうんこ宜しく、ぞろぞろ連なって道案内人についてゆく風情は決して褒められたものでない。
 各個人に於いて旅の概念は千差万別。かって僕がやった貧乏旅行をここに再現したいと思う。なにかしらそこに旅の原点があるように思えてならないからだ。「老者は過去を語り、青年は未来を語る」ではないが、いまを遡って五十年前の記録を辿り,綴ってみ
る。

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