覚者慈音1290 未知日記 第十巻  帰途案内記 巻の三  上界の巻 セイキョウ貴尊講義

覚者慈音1290
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の三
上界の巻 
NO 145
おきく婆さんのこと
                 セイキョウ貴尊 講述
                    2019.8.11


 されば生とは何か。死とは何かを先づ確定せしむるにあらざれば、謎は解け難からん。その謎を解くには、先づ生を動として、死を静として考へ見よ。然る時は確なるさとりは得らるる道理あらん。生きるの連続は動によってこそ得らるれども、静とならば止まるの他なからん。止まらば止(し)となる。止まらば即ち死に帰せらるるにてはあらざるかとの考へを、廻らして深く追究し見ば、自づと生死の謎は解決せらるる道理あらんと思ふが如何。生とは動なり。死とは静なり。斯く考ふれば汝等の思ふ生死と、我等の語る生死とには、相違ある事を発見するならん。我等が世人に教ゆる処はここなり。死する勿れ。生より生を得よと教へしは是なり。汝等の生死の考へは、肉体に重きををき居るが故に、肉体の生死を考へて、心の生死にまなこを向け居らざりしことに覚醒(めざ)めしならん。肉体の生死は如何に考ふるとも如何に工夫すとも限度あるによつて、始終の区はまぬがれじ。肉体の機械止まらば其にて止まる。機械の能力ある間は生きてはたらく。是は生なり。故に生あるものは死し。動あるものは止まるの他には何も改めてざるなり。されば生死とは動静なるが故に、是を心に応用して、然して生死を考へなば、自ら修養修行の道は構ぜらるる道理を、発見すること至難にはあらざるべし。斯くしてこそ始めて正しき生死を、明らむる事を得るなり。
 即ち動とははたらきを意味し、静とは遊ぶを意味す。さればあそび居りては死すると同様にて、流るるものは光陰なり。故に遊びは止まり或ひは死する形ならば、是等の人は生きながら死したる人なり。
 十月十五日(昭和二十四年)こだま会に於て円海が語りし、おきく婆さんと云ふ人の話を、会員に語り居りたり。所謂彼の老婆は永久死せざる人にして、人間に取りては全く幸福の仕合はせものにてあらざるかと云ふことに考へを廻らさば、財宝の有無は仕合はせを、意味するものにてはあらざる事の理も、推して知らるるならん。さればこそ彼の老婆は「我程仕合はせものはあらじ」と語り居りたるなり。然して彼女の臨終に当たりて語りたる言葉を此の書に掲げん。彼女曰く、「のいて長者が二人の譬喩、身心一体となり居らば共に悩みはまぬがれず。心されば身は安らかなり。心も亦自由を得て安楽なり。故に死するは仕合はせなり」と語りし言葉を世人は聞きて何と考ふるや。世人の思ひにてこの事にすら、唯空しく聞きのがし居るにてはあらざるか。彼の老婆こそ死せざる人なり。彼女は安楽より安楽へと、永久持続し行くならんとは考へざるか。この会の時此話を聞きて心の底より是を悟り得たる人ありしか。我に言はしむれば一人としてあらざりしなり。唯慈音のみが深く感銘して、拝みをなし居たるを見たるのみなり。斯る事にて世人の信仰振りは、未だ信仰の位置に到達し居らざる事を我等は痛嘆す。汝等円海の話を、友達の雑談の如く聞きのがし居りては勿体なしとの観念は起らざるや。今少し心を改めて、真剣なる態度にて、聴聞せん事を望むものなり。

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