覚者慈音1289  未知日記 第十巻 帰途案内記 巻の三  上界の巻 セイキョウ貴尊講義

覚者慈音1289
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の三
上界の巻 
NO 144
八流界の例話
                 セイキョウ貴尊 講述
                    2019.8.11


 世人の信仰は我等に云はしむれば、死の信仰にして、生の信仰にあらず。我等は世人を導くには生によつてこそ導くことを得れども、死によつては決して導くことを得ざるが故に、この二題の例話を掲げて、真の生死を明らめしめんとの計画より、かくは知らしめたるなり。生を明らむれば、死は生に順じ、死を明らむれば、生は死に順ず。同じ明らめに於て一方的となりて、即ち生は生、死は死と変ぜられて、一方的と化するによつてなり。然してその一方的とならば、偏りて生死は二分さる。故に生死一体化せしむるにあらざれば、通是ざる道理あらん。然して同じ一方的と思はるる生も死も、共に死と生の区別を度脱したる生死一体になさざれば、正しき生死とは言はれざるなり。
 世人の信仰は死を先にして、生を後になしたる信仰なるによりて、一体化すれば死生の信仰となる。我等の望む処は生を先にして、死を後に従はしめんことを望み居るなり。生を先にして死を後にすれば、その生死の結果は生の連続となるによつてなり。死より明らめたる生、生より明らめたる死は、相似て異なる故なり。即ち順逆の法則は斯くの如き処にあるなり。未だ神を知らずして、発したる、神を知りて何になる事ぞと云ふ言葉は、死を先にしたる明らめにて、神を知りての後に発したる、神を知りて何になる事ぞの言葉は、即ち生の明らめとなる事に心せよ。
 世人は道を歩むに当たっても、一歩一歩前進なし居ると考へ居るならん。是を仔細に検討し見よ。然らざるべし。我等に言はしむればその歩みは、二歩々々の歩みならでは、前進とはならざるべし。然るに是に心附き居る人は稀ならん。例へば始め左右の足を揃へて、左足を前に出ださば、右足は未だその始め処にあり。その右足を左足よりも一歩前進せしめんとならば、即ち始めの地より二歩進めざれば前進とはならざるべし。故に左右両足と二歩々々の歩みを重ね居るにてはあらざるか。所謂退進々々の連続となり居るならん。退進々々の歩みなるによつて運びは進むなり。是を逆に進退々々の歩みとならば、そは後方に退く。即ち退の歩みとなるなり。斯る事に於てすら世人は心づかずして、脚下を省顧せず、日々をわたり居るなり。是は肉体の足を言ふにあらず。心の足を省顧せよと云ふなり。脚下を省顧せよと云へば、世人は肉体の足を考ふるが故に、心の足に眼(まなこ)を向けざるなり。汝等の信仰は、進退進退の信仰なるが故に退歩す、されば信仰は退進々々の進行にあらざれば、進むこと難し。故に世人の信仰は何になることぞの不確定に終る。是を斯くなるなりの確定に至らしめずば、不安は除去せらるるものにあらざる事に考慮を払ふべし。何になる事ぞの迷ひより、斯くなるなりの信に達せずば、望みは得られざるなり。
 

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