覚者慈音1280 未知日記 第十巻 帰途案内記 巻の三 上界の巻 セイキョウ貴尊講義

覚者慈音1280
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の三
上界の巻 
NO 135


                        セイキョウ貴尊 講述
                    2019.8.08


 もとより七八流界ともなれば、この長寿法は九流界とは異なり、人類も従って肉体のそなはりを異にするが故に、万歳の長寿は保たれ居るなり。五流界あたりに到らば既にかかる事の問題は影だに止めず。其は人体の構造が世人等の肉体と全く異なるによってなり。長からんとせば長く保ち得る形を作らずば、為し得られざる事の理も推して知る事を得るならん。世人の肉体構造にては千歳の長きは得られざるべし。まして万歳の望みは夢想だに許されざるが故なり。誰か千年の形態を保ち得る肉体をそなへ居るは世人の中には一人としてあらざるべし。円海は長寿を保ちたれど僅かに百八十歳にすぎず。されど壮者の如き形態にては有らざりしなり。世人の世に仙人など称して五百年千年生き居ると称へ居るものあれど、事実斯るものはわづかに古今より二三人ありしにすぎざるなり。仙人の長寿とは肉体を指すにあらず。既に山中にありて行じ肉体をすてて、然して魂を地上に残し居て、或一種の行力にて種々様々の幻影を作りて、他の眼をくらませ居るにすぎざるなり。我五百年千年生きたるもの古今を通じてわづかに二三と語りしが、是は言葉のあやにして、彼の二三人と雖も千歳生きたるにはあらざるなり。五百年余の肉体は如何に修行なすとも望まるるものにあらざるなり。
 余事は別として今も語りたる伝説について、いささか語るべき大切なる事柄を続くべし。我等に云はしむれば一万年はおろか億兆年に及びても、尚死せざる底の修行をなすにあらざれば、宇宙全宇宙は平和に栄えしむる事を得ざるなり。神の眼より見る時は、世人の考ふる億兆年は微々たるものにして、極年に達するもそは長きにあらざるが故なり。兎に角滅せざる底の修養修行こそ、大切なりと知りて、深く研究せざるべからず。限度ある修養修行はいたづらごとなり。限度なき修行にあらざれば真の道を知ることは難からん。世人はここに眼を向けよ。然して耳を我に籍せよと勧むるものなり。極年と云へば限度あり。故にかかる言葉の成立せざる処に至らしめよ。

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