覚者慈音1194 未知日記 第十巻 帰途案内記 大序の巻 NO 50  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音1194
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の一
大序の巻 
NO 50

心と魂の区別

                  セイキョウ貴尊 講述
                    2019.7.22


 先づ心魂霊の区別を知るの要あらん。世人は何れが心にして何れが魂なるやを知り居るや。我に与へられたる魂とは如何なるものかを、先づ先に知りたしと思ふならん。心と魂の区別を今尚認識し居る人はすくなしと思ふなり。何れが心にて何れが魂なるかすら知らざる人に、口をきはめて心魂霊を語るとも、其こそ空論となるが故に、先づ心魂の事柄より是を区別する方法を語らん。汝等日々はたらかせ居るものはすべて心に他ならず。心は魂より生じたる枝葉にして、八方に拡がり居る故に風に対しては左右に動じ、雨に対しても亦動ず。寒暑の区別みな悉く感ずるが故に、或は腹立ち、或は怒り、或は悲しみ、或は喜ぶ底の動じかたをなすなり。聊かの事に対して思ひ煩ひ怒り悲しむ底の行動は、すべては心のはたらきなり。されどその迷ひの事柄を明らめしむる底のものは、何処かに潜在し居るが故に、抑圧して腹立ちを消滅せしめ、又悲しみをも諦らめしむるはたらきをなし居るものあるが故に,煩悶はうすらぎ居ることもあるならん。是等に考へを及ぼさば魂と心との区別は察することを得るなり。
 例へば他人より罵られて腹立つ時、その腹だちを表面化せしめず、彼の罵りの言葉を咀嚼して其に対して、何等かの原因をたしかめてその怒りを解決せしむるもののあることに心づかば、従って魂とは何か心とは何かの区別はつく筈なり。所謂良心と称へ居るものこそ、其は魂に相当すと知らば心と魂との区分は明らかとならん。彼は良心のなき人なりとよく世人は語り居れど、魂あるものに良心なきものはあらざるなり。良心なしと云ふは心の枝葉が余りに繁りて良心の魂を押し込め居るが故なり。心を有する以上魂なきものはあらざるなり。不安を感ずるは心にして安定を感ずるは魂なり。所謂不安は虚空に伸びたる枝葉なるが故に、風雨にさらされて右左に動揺するが故に安からざるなり。されど魂は大地に根をはりて動ぜず、故に枝葉は動けど根は盤石なり。汝等が云ふ動ぜざる心、不動心とは即ち汝が有する良心、即ち魂なりと知らば心と魂との区別は察することを得るならん。未だこの説明にても解することを得ざるや。世人は二心と云ふ言葉を用い居るにてはあらざるか。その二心の一つは悪に、一つは善に別るる二心ならば、善心は魂にて、悪心は即ち心なりとも見なすことを得るなり。大地に根をはりて動ぜず。故に不動心と云ふ。この不動心こそ即ち魂なりと知らば可なり。

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