未知日記寓話集 第百二十回  夢中の人とは彼等を指すならん。第三者より見る時は斯くの如し。世人はこの書を読むにあたって信ずるものは信じて読むべし。疑ふものは疑ひて読むも可ならん。唯我等はありのままを語りて世人に知らしむるに止むべし。信ぜよとも疑へよとも我等の口より語らざれど信ずるならば信ずべし。疑ふならば疑ふべし

閑話休題  ちょっとお休みしましょう


貴尊教主寛大、そしてセイキョウ貴尊が慈音さんと慈声さんのことを夢中の人と言った。


 慈音、慈声は世間より見る時は、先づ狂人として取り扱はるるやも計られざるなり。されど彼等は今は止むに止まれぬ境涯に押し込められて、ぬきさしならぬ立場となり居るなり。行くべきか、帰るべきかすら知らずして、唯夢中に使命を果たし居るにすぎざるなり。夢中の人とは彼等を指すならん。第三者より見る時は斯くの如し。
慈音よ。慈声よ。然とは思はざるや。汝等は国を憂ひ世界を愁ひて早く此書を完成せんと計り居る心を我等は嘉す。されど此書を読むもの幾何ありや。又此書に眼をむけんとするものの現はるるは何日の日か、時未だ早からん。
世人はこの書を読むにあたって信ずるものは信じて読むべし。疑ふものは疑ひて読むも可ならん。唯我等はありのままを語りて世人に知らしむるに止むべし。信ぜよとも疑へよとも我等の口より語らざれど信ずるならば信ずべし。疑ふならば疑ふべし。そは世人の心まかせになす他なければ唯講演を続くることとせん。

そしてセイキョウ貴尊は

「我、下界より慈音をこの所に導きたりと云ふさへ世人は信ずること難からん。ましてこの階の様を彼是語るとも信じがたきは当然なり。そは我等はよく知るところ、又我、姿を現はさずして下界に座し居る慈音を座せしめしまま、後方に一二間退かせしと語るとも其れにすら信ををく人はあらざるならん。
人の程度はかくの如き程度にて、我等が眼より見る時浅はかなる者なることを知るによって、天界の様を語ることは好まざるなり。然るに教主は我に対して仰せらるるには、「セイキョウよ。汝は未だ後年を考へざるが故にかくも思ふなり。今後数億年先の姿を予期せば如何!」と申されたれば、我も其意を汲みとり尤として命に従ひたるなれば、此書は現在の書にあらざることを承知せられんことを!」


この箇所を読むと両人に対し心から感謝をしたいと思います。みなさんは如何ですか。昭和一九年頃から天界の命により、戦時中をもはさみ、およそ八年間に渉って天界からの指導監督を受けられ、天使方の言葉を書き留められたものがこの「未知日記全巻」なのです。
私、以前慈音師ととても近しい関係にあられる未知日記の書籍を預かっておられる松尾東平さんと云ふ方に面談し、こんな話を聞いたことがあります。
それはあの戦時下、東京空襲の際の話でした。全都民は当然、防空壕に避難して、家屋には人っ子一人いない時、この慈音老師はそんな時にも貴尊方の講義を端然として聴取しておられたそうです。その刹那、庭先に焼夷弾が炸裂した。
その時はさすがの老師も浮き足立ち、狼狽したそうです。
この師に対し間髪をいれず、貴尊は斯くの如き言葉をもって叱咤されたそうです。
その内容を本書から抜粋します。


 汝此書を退屈しのぎ時間つぶしと心得てなし居るか。
或は道楽の一種と心得て認め居るや。
戦時下危急存亡の竿頭にありて斯かる考へならば汝は大人物なり。然れども疎開せんとか、肉体について、孫について様々迷ふ見れば、未だ覚悟なり居らざるなり。
汝は神を信ずるは虚偽の信仰か。但しは我等の教へを不正と見るや。我等が説き居る事を汝が智慧より認め居ると汝は、自問自答し居るや。然りとせば汝の心、汝の智慧は君子にあらずや。
よく考へ見よ。疎開して果して妻子眷属安全の道は遂げらるるか。汝の疎開は逃ぐる疎開か。戦ふ疎開か。
戦ふ疎開ならば軍隊の足手まとひにならざる所ならば可ならん。
逃ぐるならば何処に行くも安全は望まれじ。
我等は人間の道を説き居るは戦争下なればこそ汝を選びたるなり。戦時下ならずんば斯かる要なし。
慈音よ深く考へよ。趣味とか遊び半分座興にて斯かる一大事なる神の道、人の道を汝に教へ居るにてはあらざるぞ。
汝、汝の心中は我等は知りて同情は与ふなり。
同情を与ふに依りて導き居れるにはあらざるか。
たとひ肉体の難はまぬがれずとも、魂魄は空しく終はらすべきにあらず。深く考慮せよ。このあはただしき空気の裡に神の道、人の道を説くには理由ありてなり。
慈音よ。すべてを周囲のなすがままに任せよ。
汝の肉体も我等監督せん。安堵せよ。」と


 皆さんにお伝えしたかったことは、こういった極限状態の中で、この書は書かされていたのだ、ということを知って欲しかったのです。斯くの如く、命を投げ出し、神に全託してまでも書かされた書物など、古今東西を通じて、はたして幾冊あったでしょうか。おそらくは皆無、一冊もありますまい。まさに身命を賭しての、命を削る所業であったのです。そのような本が四十年余りも日の目を見ずして、地下に埋もれていた訳です。


 不思議なことに、この未知日記の書はあの国会図書館にすら一冊も(現在は数冊はある)蔵書されていません。漫画雑誌の類でも保管されているというのに勿体ないことだと思います。
20年前、僕も自分の住む町の図書館と隣町の図書館に未知日記の書一連を寄贈しましたが、誰一人として読む人はおりませんでした。結果、図書館の棚からそれらはすっかり一掃されてしまい屑籠に入れられてしまいました。人は文学賞の受賞作品などは珍重しますがほんと悲しいことです。今かりに図書館に一〇万冊の本が在るとしましょう。それらの本は果たして百年の歳月に堪えられるとおもいますか。残るのは仏典と聖書ぐらいのものでしょう。それすらも千年の歳月には堪えられないとおもいます。この未知日記全集は今後何億年という途方もない時間が経過しても未来の人類に読み継がれてゆきます。それほど大事な本なのです。そのことを心に銘じてお読みください。

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