覚者慈音1087 未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の九 大悟録 下 第四章 センの門  テツシン貴尊講義

覚者慈音1087
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の九 
教主講、テッシン貴尊解説
大悟篇  下
第四章 セ ン の門

                  テツシン貴尊 講述
                    2019.6.23


 さて今日迄見聞なしたる七個の門のすべてを此処に要約して考ふれば大悟とは人智をすてて神智を求むるの一語に尽るなるべし。然して其が為の修養には信仰と云ふ食を摂取して元気を作る他なしとの結論に達したるかたちなりし。とかく人は何か不思議を自己に依て感じ、或は己遭遇したる奇蹟等の体験によるにあらざれば名論も耳風となるに過ぎざるなり。釈迦は八万四千の衆生を救はんが為に八万四千の法門を作れど、救はれし弟子達は極めて少なし。キリスト又然り。是によりて考ふれば人間は如何に頑なるものなるかと寒心に堪えざるならん。されば余り簡単なる教へならば軽視して果さず。さればとて至難なる法を以てせば又苦しとて顧ず。とかく人間とは始末にわるき動物なり。我、斯く語らば汝等は云はん。斯る始末に困難なるものを神は何故に作りしかと。いささか身勝手の質問なれども回答を与ふべし。
 水は本来清けれども流れて様々に化せられて混濁する如く人も個性は清浄なれども周囲の環境に化せられて混濁す。故に修養によって洗濯せざれば清められざるなり。洗ひて直ちに清めらるると余りに汚づきて浄むるを得ざるとの相違ありと考ふれば理解するを得るならん。汝等あまりに垢つかぬ間に早く洗ひ浄めて本来の清浄にぬぐひをとすべき事に尽瘁(じんすい)せよ。久しく洗はずして物入れに押し込みおきて床をぬぐふ雑巾となり、果は地下の肥料として捨てらるること勿れ。
 さてフクの門とセンの門とを合同ならしめて共に教へを進めんとす。センの門を開くに先だち例の如く汝等に心得をくべき一二の事柄を語りをくべし。兎に角此門は第八の鍵なれば最終なるは云ふ迄もなし。さりながらセンの門に全部を尽したりと考ふるべからず。汝等の智識が進む程度に応じて学ぶべき事柄は順次深まり行くと知りて修行を怠らず努め励むべし。汝等は思ふならん。何事も知らざりし昔は却て気楽なりしと。是は務めに縛ばらるる故にて、即ち律法の縄をほどかざるに依てなり。もつれたる糸を急にほどかんとせば却てもつれしめて解く事を得ざるに等し。先づ緒を見きはめて丹念に順序に従ひてほどかば案外たやすく解くるものなり。汝等心のみあせらせて早く道を究めんとして却て常住成功を阻害なし居るなれば、速ならしめんとならば心をおちつけて業を速に行はば成功は早し。俗言にも、「急がば廻れ」と教へ居るにてはあらずや。心苛だつは信仰うすき人なり。信仰強ければ其業務を熱心に行ふ。熱心に行ふによって心はその業務に融け入りてをちつきを見す。故に成功は速なり。汝等の修行を見るに何物か一個のものを把握して其によって道を進まんと計り、しきりに何物かを探ね求め居りて我等の論説を聞き居るを我は知れり。故に我等の教へは半ば耳に入り、半ば何物かを探ね居れるにより、却て其求むる何物かを得ることを得ざるなり。是即ち信仰のうすきを示めし居る証拠とも見らる。先にフクの門にて語りし三満一欠なるによりてなり。

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