覚者慈音1050 未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の八 大悟録 上 第四章 ジョウの門  円海大師講義  行者の生活その一端

覚者慈音1050
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の八 
教主講、テッシン貴尊解説
大悟篇  上
第四章 ジョウ の門
行者の修行生活の一端



             ミキョウ貴尊(円海大師) 講述
                   2019.6.13


  慈音さん。分りますかな。総じて世の中の事柄は知らねばなりませんが、とやかく論議して居る間は成立ものではありません。論議を超越した処に本当の真実が発見せらるるのです。さとりと云ふはここなのです。泰岳は死んで居るものなら活して働かせ。わしは殺生は大嫌ひぢゃと云ったのは、霊心超越して居るからこそ彼の愚物にして此の行ひがなし得られるのです。
 世の中の人は大抵生きて居るから死なせて使ふ主義だから殺生になり易い。そこで喧嘩口論の絶間がない。果は戦争と云ふ悲惨事が持ち上る。是等は生きて居るものを殺して死なせて使ふと云ふことになるのでせう。慈音さん、そうは思はんかな。もとより物事は道理を知らねばなりませんが、彼はああだ、是は斯うだと考へて居る間は道は得られるものぢゃない。ものは活かして使へ。廃物利用せよと言ひますが、そんな考へは未だ悟れたとは云へません。何故なら廃物を利用しょうと云ふ観念に囚はれて廃物でないもの迄、廃物にする間違ひを起すからです。つまり廃物を利用せんがために、生きたものを殺さねばならぬようになるからです。私は泰岳にききました。
 「貴下は何時も何か考へますか」と訊きましたら彼は不思議そうな顔をして、「闇戒、考へると云ふことはどんなことか、わしには分らん。教へて呉れよ」と言はれて此方がびっくりしました。そこで、「眼からものを見たり、耳から聞いたりすれば其に対して考へはあるではないか」と訊きますと、彼は又、「眼で見れば見たままだし、耳に聞いたら聞いたままでよいではないか。けれど身体で聞き、身体で見、身体で嗅ひ、身体で喰ふと美くしいとか、汚いとか、うまいとか感ずるが、是を兎や角思ふようなことは少しも無い。そんなことを思ふて居ると神様をおるすにするよ」と、きいて又教へられました。慈音さん。どうぢゃ。分るかな。其で全く彼の信仰の強いことが分りませぅ。彼は全身耳眼口鼻にして居るのです。だから彼は問へば直ぐ答へます。彼は私達のように多くの言葉を知りませんが、彼にものをたづねると言葉でこそは説明しませんが、唯眼をぱちくりさせるばかりぢゃが、其で此方に返事がわかる。即ち無の言葉ですな。彼は宇宙を己となし、己を宇宙として居るのでせぅ。然して彼は脳中にないらしく他の弟子達が論議を戦はせて居ても彼は一言半句もくちばしを入れず、貴様達は何と云ふて居るかと云ふような、そんな顔もして居ません。もし誰かが審判を求むると、「わしは知らぬ。師の坊にきけ、理窟の云ひ争ひする程なら何方にも理窟があるからだ。理窟のない処迄談合したら理は見つかるだろふ」と云って、決して取り上げず、「わしは忙しい」と云つて居ましたが、其でも彼にきくと何か云って居る言葉の間にみなが教へられたものです。大悟の力は実に偉大なものぢゃありませんか。

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