覚者慈音92 未知日記講義第一二巻 大霊界  静の感じ動の感じについて その6  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の弐                         NO51                                 静の感じ動の感じについて       その6                                                         教主寛大 講述


 響きによって組織されたる肉体なるが故に、その肉体は既に完成なしたるものなり。然るに諸子は完成なしたる肉体に囚はれて、そこに宿り居る精神に意を用いざるが故に、心の組織を完成する事を得ざるにすぎず。完成されたる肉体を持つ以上、そのものに囚はれ居る必要はあらざるべし。故に今後は更に心の組織をなすにあらざれば、身心共に発育することは難からん。我等は諸子に対して肉体をすてよと云ふも、肉体を放棄せよとの意味にあらず。既に完成されたる肉体は、それにて終りを告げたるなり。されば更に進んで次の心の組織を計れよと教ゆるに他ならず。斯く語りても未だ諸子には理解し難きか。是以上我等には教ゆる言葉なし。
 諸子は家を建つるにあたり先づ基礎を固め、次に柱を建て更に屋根を葺き、更に戸障子をいれて住居するにてはあらざるか。肉体は家を建つる基礎に等しく、戸障子内造作等はすべて霊的なりと考へなば、何時迄も家の基礎に囚はれ居りては、家を建つること難からん。この理をよくよく考究せよ。されば今後は柱をたつる事に努力せば、従って屋根をはり、戸障子を入るる方法も、理解すること難きにあらず。又其をなさざれば人として住居すること困難ならん。諸子は己が家を建設せずして生涯所かまはず、野に臥し山に臥し各所を転々して、さまよふ人となりたきか。然らざるべし。浮住界に迷へば恰も其れと同様にして己が宿るべき所を定めず風雨にさらされて苦むは当然なるべし。我、かく語らば諸子は云ふならん。慈音の如き基礎の定まらざる肉体にして是に住居をるは如何と。是あるが故に我等は慈音を手本として諸子に示し居るなり。慈音の肉体の組織は不完全なる地盤なりしによって居を定むる事を得ず。彼は唯最初より基礎のあやまりたるが故に柱をたて、屋根を葺くにあたって種々様々か労苦をなしたるなり。基礎の悪き所に柱を建て屋根を葺くは危きことこの上もなし。然るに彼はこれを程よくあんばいして全き家を建設なしたるなり。危き地盤に家をたつるに於て雨にもぬれず風にも倒れざる家を建設して住居なし居れど、地盤がゆるみて家ををくこと困難なるに至らば、そのまま他に移す方法を今尚学し居るにすぎざるなり。故にその労苦は察するにあまりあらん。
 汝等諸子は完全なる肉体の家の地盤をかため居るに不拘、今尚棟上げをせず雨にぬれ風にさらされ居るにてはあらざるか。地盤の肉体が如何にともあれ、其を程よくあんばいして棟上なしをかば、そのまま他に移すとも風雨の苦はまぬがるる事を得ん。我、斯く語らば諸子は種々様々の理屈を考へて反駁するならん。されど是等は比喩にしてその譬喩の言葉が不完全なるが故に、諸子は理屈を以て反駁するならん。理屈は止めよ。其よりその暇あらば早く棟上げをしては如何! 譬喩の言葉に対して彼是批判することなかれと誡めをくなり。
 この比喩に対し慈音は我に向ひて基礎を肉体とするならば、柱床天井は魂にして、畳建具等は心に合ふにてはあらざるかとの質問をなしたり。是に対して我は何れにてもよしと答へおきたり。斯る事は別段彼是と論ずるの要なきによってなり。兎に角肉体にのみ囚はれず、完全なる家を組織すること肝要なり。

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