覚者慈音801  光明論上巻 巻の三  79番  教主寛大講義


覚者慈音801
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の三     
          
                  教主寛大 講述
                  2019.1.26
                  第79番


 近代汝等の中には自然主義々々々々と盛んに自然を唱へて鼓吹し或は売物になし居る輩あれども、彼等は正しき自然をしらず、自然を曲解なし居るなり。即ち彼等の説く処は平面自然にして、立体自然にあらざるによりて表面のことのみに走り内部を空虚になし居るに依て錯誤を招き論議の余地を与へ居るなり。汝等斯る輩の書籍を読みて自然を曲解なし居る者も少なからざるべし。彼等の説く処より考察すれば、もしここに理学者現はれて地球を逆転せしめなば汝等は自然も学者に依て克服せられたりと賞讃するならん。斯ることをなし得たりとて自然は何等の変化を来すものにあらず。真に自然を征服するものは、即ち全宇宙を作りたる神を措いて他にあるものにあらざればなすことを得ざるなり。如何なる名木名果なりとも大地に種を下さずばよき結果は得られざる如く、人も大自然に抱かれずば、人としての徳を発揚する能はざることに着眼して修行せよ。然らば必ずさとりの道は開かるべし。
 汝等は自然と云へば空間を聯想し時間を思惟するに依て誤解を招く。むづかしき道理を知らずとも可なり。汝等真の悟道に入らんと思ふならば己自分の身の上の自然に重点をおきて工夫せよ。如何にせば我等は自然にとけ入りて是に順応し行くを得るかを考察せよ。然らば道は明らかとならん。肉体を苦むるは自然か、或は満足せしむるは自然なるか等に至る迄思ひを廻らし見よ。汝等は飢餓になやむ時、如何なる尊き教へを聞くとも、一椀の食に及ばざるべし。是を思ふ時餓えたる者には食を与へざれば導くことを得じとの理を知るに至らん。すべて汝等の修行修養を見るに唯自己に止めて範囲をせまくし居るに依てその結果は小さし。一つの事を万般にわたって考察すれば次より次ぎと新しき道は開かるることに心を用いて物事は範囲を広くして考究せよ。斯く延長すれば禽獣虫魚植物に至る迄、其徳は及びて植物は繁茂し獣類魚類は肥えふとりて食物に支障を来す憂も一掃さるるに至らん。寒暑に対する心がけも亦然り。されば衣食住の考えに至る迄、範囲は拡大されて肉体の憂ひを除去すれば、その後は心の修養に努力せんとの観念にうつり来るは明白なり。 
 例へば汝と彼と二人飢餓に瀕し命既に終らんとするにあたり、ここに一椀の食を得たりとせば汝等は如何になすべきか。相互奪ひあひて勝利者が食するを自然の現象なりと考ふるや。現代の自然科学者は然りと言はん。されどそは誤れる解釈にて正しからず。汝が斯ることに瀕せば先づ心の安定を計りて思惟し見よ。此一椀の食をとりても相互に生くるべき道なくんば共にわかちて後死すべきなり。もし相互の間に誰か一人が其一椀を食することに依って生くることを得るならば、其者に与へて一方はいさぎよく倒るべし。又相方が共に一椀にて生くる法を知るならば分ちて半分づつ食し生くる道に倒るる迄進まば可なり。是即ち自然の法に合ふなり。宗教家の教ゆる処によれば若し斯る場合は相方共に死するならば、其食を彼に与へよと説けり。斯ることは慈悲に似て慈悲にはあらざるなり。そは自然に反するに依てなり。

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