覚者慈音797  光明論上巻 巻の一  75番 厳戒の辞の大事を説いてこの講を閉じよ テツシン講義

覚者慈音797
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の二     
          
                         
                  テッシン貴尊講述
                  2019.1.25
                  第75番


教主、曰く、


「我、今立座するに辺り、汝、テッシンに告ぐ。彼等に霊話の雑用と、更に又厳戒の辞の大事を伝へて此講をとぢよ」


教主、立座、礼拝低頭


 汝等は肉体を霊界の修養道場と心得よ。道場は破損の箇所彼是とおこりて雨漏りすることもあらん。暴風にて戸障子の倒るるもあらん。又床の脱落することもあらん。然し道場として是を使用するならば神聖なる場所なれば大衆は是が修繕をなすには決して労力と資材を惜むものはあらざるべし。常に手入れを怠らず、早く破損の箇所を見出し倒壊せざる用心肝要なり。世の中には親ゆずりの財産のあるにまかせ唯何をなさんともせず生涯をぶらぶら遊びまわる不埒者を世間の人は果報者と称して羨むは愚なり。斯る者こそ霊界の魂屑となるなり。又霊界に学ぶ者の心得として何々の行をなすに依て願望を成就せんことをなどと愚なることをなす勿れ。例へば一週間断食をなすに依り良人の病気平癒なさしめよなど祈るなどは誤なり。斯る事をなさば妻は衰弱して良人の看病に支障を来すのみ。もとより断食を胃腸病患者になさしむるは医者の許しを得ば可ならん。あやまてる方法は決して行ふことなかれ。そは何等の効果あることなし。若しありとせば行にあらずして念力の現はれなり。要は己の使命を全うし高きを妬まず低きを卑めず、執着を離れて洒々落々として憂を除り喜悦をさり怒りもさり、唯霊を敬ひてすべてを霊に任かせて忘れず、常住坐臥霊と共に生活せば天眼地眼は自づと開けて、第三の鏡に映さるるとも決して恥づべき処なく明々白々の姿とならん。

教主立座に際し我に申されたる厳戒の辞とは即ち戒めの言葉と云うに似たれど、此言葉には種々際もなき尊敬とか感謝とか服従とかの意味も含まれ、且つ貴尊寛大を呼び求むる意味なども含まれある言葉にして、無量辞とも云ふべきなり。その言葉とは我、行法の巻末に
チ、シュ、キュ、ジョ、ギョ、コウ、フク、セン なる文字を記しおきたり。即ち此一五文字の言葉を厳戒の辞とは名附けられたるなり。もとよりこの句は汝等が国語に簡訳なしたるにて、我等が寛大に用ゆる発音とは異なると雖も、その意味その作用(はたらき)その力には亳も異なることあらざるなり。
我今一五文字と称したるを汝等は見て八字よりあらずと思ふならん。故に教ゆべし。即ち、
チ。シュ。キュ。ジョ(ウ)。ギョ(ウ)。コウ。フク。センの一五文字となれば、称ふるに際して、
チ、シュ、キュ、ジョウ、ギョウ、コウ、フク、セン と連続的に発音をなすことをせず、チ。シュ。キュ。ジョ(ウ)。ギョ(ウ)。コウ。フク。センとそれぞれに明瞭なる音詞を発するを要するなり。(注意 ジョ(ウ)、ギョ(ウ)、の(ウ)は口内に含む故に二字と二字の発音の如くす。)
此辞の句を詳細に説明するには万巻の書を以てするも充分とは云ひ難からん。又言葉にては説き尽くすことは難し。汝等は知る仏教の念仏題目はもとより一切の呪文もこの中に抱含せらるるなり。又汝等懺悔の意味、帰依するの祈りのすべてはもとより、修験者が行ふ九字の秘法等も蓄在さるると思へば可ならん。又是を他に例せば音楽の名曲秘曲と云ひっべく、仮に是を技量劣れる者に教へたりとも詮もなし。彼は秘曲名曲の徳を発揮するに至らず、却って聴衆者の嘲りを受くるに至らん。
厳戒の辞を斯かる事と混同するはもとより僭越に過ぎるやも計られねど、譬喩は先づ斯かることにも通ぜん。唯此辞の徳を覚らず、玩言の如く弄するが如く称ふるとも甲斐なし。即ち長者の万燈より貧者の一燈なる心持ちを忘れざらんことを望む。
教主、出座立座に際しては心をこめ三称し以て、迎送の礼詞とせよ。此他朝夕臥床起床はもとより、洗面の前後食事の前後、人と応対の前後等々すべて何事をなすにもその前後に必ず三称なすことを忘るる勿れ。是は呪文にあらず。又願望成就の為の願文にもあらざるなり。この他詳細なる説明あれども慈音病みたれば、是にて此講を終了となし、第三巻にて又詳しく説明せん。
                      (昭和二〇年六月一八日正午)


 (この日肉眼にては何等病める様子には見えざりしが、夜半に至り胆石病のいたみ出で慈音病臥す。然して是より東京市内の爆撃止む、慈声註)

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