覚者慈音39  未知日記第四巻    魂魄一如の法

未知日記第四巻  ミキョウ貴尊講述(現在のセイキョウ貴尊)



魂魄一如の法


仮に汝等は麗しく咲たる花を見るとせんか。その時一枝手折りて床に飾らんと思ふは魂の命にして、手折るなかれ、そは他のものなりと止めるは魄なり。されば此の二心を一体ならしめて三気合流をなさば如何にと云ふに、先ず花を見たる時、直ちに花の咲きたるを喜び愛し、我の眼を、娯しませたる感謝の念おこり、手折らんとする如き心は微塵も起らざるのみか、散らぬ間に多くの人を娯しませたきものよとの慈悲心となる。是魂魄一如の働きなり。人間性の修行は他なし。魂魄相反し居る故に迷ふなれば、是を一如ならしむる法を修得せんが為の行を励むと心得べし。修行の法は親を求むるは勿論、悪心を去れば魄は表面化す。故に魂と魄を日常の動作に於いても、同時に働かす工夫を凝らすなり。例へば時にふれ、物にふれ、表面に魄を先にする事を錬磨す。是、俗言にかなはぬ時の神頼みと云ふあり。汝等魂魄一如の法を修行するには最も適当の言葉なり。何日も叶はぬ時と思ひて、神頼みの心を起こさば魂魄は一つとなりて霊気働き始めて神に通ずる道、明白とならば、人通力によって通天識を完全に得らるるなれば汝等不屈不撓修行に励むべし。



念力について      
 


「慈音よ、我、汝に命ずることあり。其は他なし。汝の時計の狂へるを我旧に復さしめたり。我、姿は見えざるに斯かることを行ひたり。今又是を狂える時の姿にかへすべし。故に汝は念力をもって是を旧に復さしめよ。汝は眼なくとも姿あり。なせばなるべし。行ひ見よ。然して念の力を養ひて、魂魄の力の如何に大なるかを体得すべし。」
慈音聞くべし。今我、慈音に命じたる如き無理難題を汝等何と思ふか。もし慈音が機械に手を触るれば、機械は破損して用をなさざるに至らん。手を触れずして復旧せしむる念力を会得せば、他人の病苦も手を触れずして治癒せしむる力となる。彼の信仰を益々其度を加ふるに至らしめんと思ひて命じたるなり。なせばなるなり。不能の業を命じたるにはあらず。
                   昭和一九年一二月四日

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