未知日記霊話集千六百四十一回  帰途案内記 NO60 汝等信仰なし居らば、神仏の加護にて不時の災害は免るると云ふが如きあさはかなる信仰にて、神仏を帰依する如き行ならば其はなさずとも可なり。斯る人に対して円海の如く、己が肉体を己自ら地中に埋めて昇天したりなど聞かされなば、その何故なるかも測り知ることは難からん。汝等に与へられたる肉体は稔り全きを得たらば、如何になるも差支なき底の信仰ならでは、正しきさとりは得られざるなり セイキョウ貴尊講義

未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の二
転界の巻 
NO 60
セイキョウ貴尊 講述

                    
 汝等の宗教信者の中には信仰の度強くして日々を生活なし居りし人が、不時の災害にて死したるを見て、彼の人ほど信仰の強き人はあらざりしに、斯る死を遂ぐるは神も仏もありと云ふ如きは偽はりにして、世には神仏の加護などあるべき要なしと、罵りて信仰を捨つる如き人も少なからずあるを我等はよく知る。汝等信仰なし居らば、神仏の加護にて不時の災害は免るると云ふが如きあさはかなる信仰にて、神仏を帰依する如き行ならば其はなさずとも可なり。斯る人に対して円海の如く、己が肉体を己自ら地中に埋めて昇天したりなど聞かされなば、その何故なるかも測り知ることは難からん。汝等に与へられたる肉体は稔り全きを得たらば、如何になるも差支なき底の信仰ならでは、正しきさとりは得られざるなり。
 例へば一本の樹木に対してすら柱となるあり。根太(ねだ)となりて踏みつけらるるあり、厠の踏板とせらるるもあり。社とせられて拝まるるもあり。是みな其々の分野に従ひて任務に服す。近親の人に囲まれて床の中に患ひて死するは、正しき往生と見るは近親者のみなり。病みて死に行く者の苦みは長ければ長き間、悶へ悩みて呼吸の絶ゆる迄苦しむ。刃に貫かれて死する苦みはわづかの時間にて、死したる者の悩みは却て少なし。不時の災害にて死したるもの、又寸時の苦痛を味ひしにすぎず。然りとせば長き苦みをなしたるものと僅少の苦みにて絶えたるものの比較をなし見よ。近親者の思ひのみ異なるのみにて、死したるものの悩みとは反対の結果に過ぎざるならん。同じ死するものならば長き苦みより、短かき苦みにて死するならば、誰か長き苦痛を望むものあらんや。世人の生死の明らめは正しからざるが故に、斯くの如き表裏の考へをなすなり。誰しも一度は断末魔の苦みは免がれざるなり。信ずると信ぜざるとに拘はらず、是は肉体を有する以上、一度はこの境涯を超えざれば魂の緒は切れざるなり。
 是によって更に奧深く考へを廻らさば生とは何か、死とは何かの区別は自づと察せられるならん。我等常に語り居る如く死を思ひ切る事は易し。されど生を明らむる事は難しと説きたる意味も諒解なす筈なり。正しき生とは魂を完全に稔らすを生と云ふ。稔らせたる魂を肉体より離れしむるを即ち死と云ふなり。故に死は易く生は難き理論となるなり。
 例へば完全に熟したる果物をもぎとる如きと同様にて、熟したる果実をもぎとらずそのままになしをかば、地に落ちて腐蝕し終らん。是には時期を失せざる程度にて、収穫せずば造主の望みは果されざるべし。されば三才の翁百歳の童子の言葉の如く、完全なる稔りとならば三才にても収穫なし、稔らずば百歳迄も残しをくも是造主の任務なるべし。

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