未知日記霊話集千四百六十四回 大霊界 大霊界とは神の世界かその4 大空に空路あり。大海にも水路ある如く、大自然にも順路あることは諸子にも察せられるならん。自然に順ぜよと云ふことは自然の順路を誤たず歩めよと云ふことなり。先にも語りし如く諸子は彼も修養、是も修養と余分のものを多く取り入れて記録盤をあまりに多くなし居るよって、却って枝葉の道は多くなりて、ために迷ひを深くす。されば一つの道を広くし、その道を闊歩せば迷ふことはあらざるなり  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                        NO147
大霊界とは神の世界か            その4                                                  教主寛大 講述



 前にも語りたる如く「今聞きてすぐに忘るる身なれども南無阿弥陀仏残る嬉しさ」。此句の如く聞きたることを忘るると云ふは、記録盤をぬぐひ去りたる如くなり。されど必要あるによって南無阿弥陀仏と云ふ大切なるものを残して、すべてのものをぬぐひ去ることによって、阿弥陀の光明はあまねく各所を照らすの意味なりと、我等は思ふが諸子の考へは如何。諸子は五大鏡を見聞して、何か己の修養の材料として利する処あらざりしか。唯天界に至らば斯る所のあるものかなとのみ思ひて珍らしき所よと、訳もなく見すごし居りては何等の修養とはならざるべし。この五大鏡の組織は汝等が肉体にも備はりあるなり。物事を聞きてその事柄を記憶し居るは汝の心ならん。即ち心の記録盤に止めをくによって思ひ出すと云ふことも、その記録盤がとりだされて判明するなり。すべては汝等が心に記憶し居ることが、ながく保存され居るによって忘るることはあらざるなり。是等は五大鏡の具備が汝等諸子の心にも有し居ることに心づかば、五大鏡の様を見聞して不思議なる所かななど考ふるの必要はあらざるならん。五大鏡八大門すべては縮小されて、汝等の肉体に迄かかる備りを有し居るなり。けし粒の如き小さきものより、大なる花を開らかしめるも、五大鏡八大門の延長に他ならず。是等は皆大自然の法則に基きて作られたるものなれば、大自然の理を理解せば、天界のすべては悉く汝自らにあることに留意して、修養の道を深くせば、忽ち大霊界に往来することを得ると承知せよ。個々別々に区分して彼是迷ふが故に一体とはならざるなり。己を基として天界に通ぜしむれば、ここにはじめて彼我一体の境地に化せられることは自然の道理なるによって、大自然に順ずれば必ずや通ずと語りしはこの理なるによってなり。
 大空に空路あり。大海にも水路ある如く、大自然にも順路あることは諸子にも察せられるならん。自然に順ぜよと云ふことは自然の順路を誤たず歩めよと云ふことなり。先にも語りし如く諸子は彼も修養、是も修養と余分のものを多く取り入れて記録盤をあまりに多くなし居るよって、却って枝葉の道は多くなりて、ために迷ひを深くす。されば一つの道を広くし、その道を闊歩せば迷ふことはあらざるなり。記録盤をぬぐひ去りて正しきものを残しをかば、後輩者はその明るき道を歩み来るによって、迷はず上昇し来ることを得るなり。故に正しき順路を作りて後輩者のために記録盤を残しをかば可ならん。釈迦イエスも記録盤を残しをきたるによって、その記録盤を追ひ求めて歩み来るものは、極楽天国に来ることを得ると残しをきたるならん。されど釈迦イエスの後輩者が勝手気儘に横道を数多作りて記録盤を汚せしため、現在は余りに複雑となりて何れを択ぶやに苦み悩み居るなり。故に釈迦イエスは言ふ。我等の教へを傷くるものは、我等の後輩者なりと語りしと云ふ逸話も聞きたり。その実否は知らず。又我等の分にもあらざるによって別段彼是論議するの要はあらざるなり。我等は釈迦イエスの現在をよく知る。是をくはしく記しなば宗教信仰者は迷ふならんと思ふによってくはしくは記さじ。 

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