未知日記霊話集未知日記霊話集 第千二百二十五回 絶対界 第六章 神霊界 霊の動静について 祖先も我なり。 未来も我なり。 所謂我より我への連続となる。又彼より彼への連続とも見られ、更に神より神への連続とも見なすならば、時間空間の必要も感ずるものにはあらざるべし。 是等の言葉を単に聞きのがし、唯五里霧中にて読むこと勿れ。是は斯くあらんか。この言葉はかかる意味かと、味ひつつ考へ考へながら読むべし。然して自得せよ テツシン貴尊講義

  ヒロさんの転記したものをここに掲載します


絶対界 第六章 神霊界 霊の動静について



 絶対性自然と相対性自然とを比較して考ふる時、諸子は相対自然を用いて、絶対自然より遠ざかり居る為、神と云ふに対してもその見かたが異なり居るによって、すべては相対的となりて、宗教者と我等との教へを異にし居ること多し。相対的より見る神は限度を有す。されど絶対的より見る神は限度なし。神と諸子との対立はすべて、相対的なるにあらずや。神と諸子と対立せざれば、一如の姿となり神即我、我即神の関係となる故に、神と我とは一つにて二つにあらずとの結論となる。 是絶対の見かたなるによってなり。されど諸子は神を神とし、我を我とするによって、神と我と対立してここに錯誤を引きおこして、都合よき時は神に従ひ、都合悪ければ神より遠ざかる結果となるなり。斯ることにては信仰は得難し。さればこそ諸子は、人類同志に於ても和合することを得ざるなり。 諸子は常に四海兄弟とか云へる言葉を口にし居りながら、 唯其は言葉にのみ現はして、事実に於て争ひをなし居るにてはあらざるか。現在の世相は親を親とせず、子を子とせず、或程度迄子を育つるは親の義務にして、其以上は独立をなさしめんとてその責よりまぬがるる親心は、親としての親にあらず。是を一面より云ふならば愛するが故に、独立せしめんとはかり居るなりと云ふならん。もとより是等は相対性自然を応用したる法則に合へど、是を絶対より見る時は何かそこに割り切れぬものを感ずるにてはあらざるか。 所謂相対より複相対へと次第に分たれ行きて、果は一体化より遠ざかりつつあるによって、個人主義と化せられるなり。さればこそ子は親より遠ざかり、親は子を忘るるに至る。甚だしきは親子反目して、法廷に争ひなどおこし、勝利者は得々として世に憚らざる如き誤ちをなし居るに不拘、第三者に於ても是を余りに重要視せず、当然の如く考へ居るが如きは、複々相対の自然ながる故なり。 相対性より神と人との関係を考ふるが故に、斯くも誤ちをなし居るなり。苦しき時神に助けられおきながら、我儘をなさんとする時は、神より遠ざかる如きは、これ相対自然なるによってなりとの理由もうなずかるるならん。 神を親とし、我を子として、親子の関係を考へ見よ。然る時は明らかに汝等の誤ちたる信仰を解することを得るならん。 其と同時に汝等の世相の過誤を発見することも得らるる筈なり。 絶対自然より観察すれば、神と我等とは一体なるが故に、離るること能はずとの思ひを厚うするならば、神より離るることあらんや。是を汝等にとりて考ふれば、親と子は一体なるによって、離るることを得ずとの理もうなずかるる筈なり。然りとせば全宇宙は一体なるによつてすべては一つなり。不可分にあらずとの道理より考ふれば、反目して争ふ如き愚を敢てするものにあらざるべし。 四海兄弟はおろか、全宇宙はすべて親子兄弟の関係となる以上、過去現在未来、永久一体より一体として考ふれば、すべては一なり。 祖先も我なり。 未来も我なり。 所謂我より我への連続となる。又彼より彼への連続とも見られ、更に神より神への連続とも見なすならば、時間空間の必要も感ずるものにはあらざるべし。 是等の言葉を単に聞きのがし、唯五里霧中にて読むこと勿れ。是は斯くあらんか。この言葉はかかる意味かと、味ひつつ考へ考へながら読むべし。然して自得せよ。単に文章などにこだはらず、又辞句などに留意せず、読みて、兎に角巳が心のはたらかせかたを工夫しながら、味はひ読まれんことを望む。 我等わざと分りにくき言葉もて語り居るなれば、その心して読むべし。 然して自得せば、自づと諸子の心の中に喰ひ入りて、理解せしむる事を得るなり。 おろそかに見のがすこと勿れ。

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