未知日記霊話集 第千二百二十回 絶対界 第六章 神霊界 霊の動静について 諸子は「未知日記」の最初よりこの書に至る迄聞き居りて、中途にて是を捨つれば、その全部を究め尽すことを得ざるべし。故に何かに惹きつけられて、見るともなく聞くともなく見聞しつつあるも、是一種の執着より現はるる現象なり テツシン貴尊講義

 


絶対界 巻之二 第六章 活動霊子(仮称)と補助霊子(仮称)について


 ヒロさんの転記したものをここに掲載しています


 円満せる世界と雖も相対性円満ならば、永久不変とは云ひがたし。例へば一個のごむ毬に対して、一本の針にて穴を穿ちなば、その全体が全きを得ざるならん。 諸子はかかる事に対して余りに意を用ひ居らざるべし。 さりながら是を大きく考へ見よ。 一本の針穴にてごむ毬の全体が破壊せらるる如く、地球上の人種の一人が不善を行へば、その全土が傷きて安からずとは考へざるや。我一人かくなすとも何の事かあらんと云ふが如き行為をなし居りて、何日か平和は保たるべき。我一人と思ふことは針の穴に相当すとは考へざるや。 この例に徹して考へを廻らす時、神の作りし善悪とは何なるかを悟ることを得るならん。即ち破壊するは安く、組織するは難し。故に破壊の方向に向ふは不善にして、組織の方向に向ふは善なりとの理を悟ることを得るならん。即ち破壊は悪にして、組織は善なりとの結論を得て、其によって凡てを明らむれば、善悪の道理はうなずかるる筈なり。汝は巳自ら中心たらんと考ふるならん。 彼も然あるなり。然りとせば我も中心彼も中心、地球全体の人類が中心たらんとの考へを有し居るに相違なからん。其が思ひを誤ちて方向を乱すによって、中心は定まらざるなり。一致協力して人類悉くが中心とならば、その時始めて世は安かるべし。我はにぶし。彼はすぐれたり、故に彼を中心とせんとの組織なるが故に、世は安からざるなり。例へば一つの党を作りて、其に首魁者を設くる如きは、却てその党を乱すこと多からん。さりとて中心となるべきものを択ばずば、是又保たるるものにあらず。ここに至って相対と、絶対の相違はあるなり。拾もごむ毬の中に含まれ居る空気の如し。一個の針穴がその全体を破壊するは、針穴の中心に方向をむくるが故に破壊せらるるなり。 もし針穴の中心なくんば永久安かるべし。即ち永久針穴を穿ずば是絶対なるが故に安全なり。中心を設くるが故に、その中心となるべきものの誤つと誤たざるとの関係は相対性となるによって、破壊へも組織へも向ふは当然なるべし。故に人類全体が一致協力することによってその一致の力が中心とならば世は安し。
所謂ごむ毬の中心は中に含まるる全体の空気なるべし。故にこの空気を外に出さしめざるやうになすには、全体が中心となりて、是を補佐するにあらざれば、中心は失はるることは火を睹るより明らかなり。空気全体が中心ならば、外部全体は即ち中心なり。是絶対自然の原理なるによってなり。故に全宇宙は全部その悉くが中心となりて、終始の定めなく、永久安らかに保たれ居るなり。されば位置もなく、高低もなく、時間空間の定めも従って、不必要となるなり。諸子の妬み嫉み羨む心は、すべて位置によって生ずるならん。前巻にも語りし如く厠の踏板を厭ひて、坐敷の床柱たらんと考ふるが如きはその例なり。斯く語ればとて諸子には如何に教へらるるとも、その明らめをすつることは難かるべし。其は何故かを思推し見よ。 斯る心の生ずるは、絶対より相対の方向にむけられ居るが故に、その明らめをなす事を得ざるなり。故にその心は自然より出でたる現象なれば、捨つる事をなさずとも可なり。 棄つるには及ばざるなり。されど唯妬み恨み嫉みて其に執着して、 破壊の方向に向ふことを止めよ。 然してその心を組織の方面にむけなば、その思ひを捨つるには及ばじ。その心あるによって人智は進み、組織より組織へと歩みを運ぶことを得るなり。その思ひをすてずして用いかたを変へよと奨むるなり。 恨み妬み嫉みて悪事を行へば破壊となり、善事に応用すれば組織となるは、即ち自然の法則なるによってなり。 小児が一段にても高き処に上らんとする素質を有す。是絶対性自然より現はれたる現象なるによってなり。 執着心をすてよと云ふはものに拘泥して、その居に長く止まること勿れと云ふことにて、 その執着心を応用して組織の方向にむくるは、自然の姿なるによってなり。諸子は「未知日記」の最初よりこの書に至る迄聞き居りて、中途にて是を捨つれば、その全部を究め尽すことを得ざるべし。故に何かに惹きつけられて、見るともなく聞くともなく見聞しつつあるも、是一種の執着より現はるる現象なり。 小児が小学より大学へと漸次進み居るも即ち執着なり。 もしその執着を中途にて思ひ切らば、修養修行はなりたつものにあらず。 執着あるが故に学び進みて、その全きを得るなり。 是等は執着心の用いかたを前方に向くるによって、歩みは進み居るならん。その執着を後方に向けなば悪人となりて、果は奈落へ転落する憂目を見る。 是絶対自然の法則なるが故なり。酒色に溺れて身を亡ぼす。溺るると云ふは即ち退歩を意味す。棄執着の法とは即ち執着心を応用して、其によって向上の道を択ぶ方法にして棄つるにあらず。 所謂方向転換の理を教へ居るなり。故に棄執着とは悪きに用いず、善事に用ゆれば法は行ふことを得るなり。一言に云へば用法を変へよと云ふに止まる。 是棄執着の法なり。むづかしき事にはあらざるべし。 我等はならぬ事をなせよと云ふにあらず。 その意味は是等によって諒解する事を得たりしならん。 我等かかる宗教めきたる事を語り居るに不拘、 我等は宗教者にあらずと云へる言葉に対しても諸子は不審するならん。是に関して聊か語りおくの要あり。

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