未知日記霊話集千百五十九回 光明論 下巻 巻の九 即ち三十体の像はフクに合ひ最後の一点はセンに合ふ。汝等此理を悟り居るや。大悟は此処にあり テツシン貴尊講義


未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の九 
教主講、テッシン貴尊解説
大悟篇  下
第四章 セ ン の門
例話 ある彫刻師のはなし



                 テツシン貴尊 講述
                   

 或彫刻師僧より依頼されて仏像を刻みたれど僧は是を受け入れず。すべて死仏なりと罵り又人型とも罵詈す。彼は斯くすること三十体に及び尚僧の許容を得る能はず。ここに至って彼思ふよぅ、我、仏を知らずして刻まんとなすに依てならんと。ここに彼は百日の断食を行ひて真の仏を我に拝さしめよと祈りたり。百日過ぐるも何等の験なし。彼途方にくれて我姿にても刻まんと、己が姿を水鏡に映して一個の像を刻みあげて是を祀りて供物を捧げ、其前にてノミを以て自殺を謀りしに折柄僧の来りて此像を見て彼が死を止めて曰く、「彫刻師よ、見事なる仏出現したり。汝、死するに及ばざるべし。」と云ひたり。是を聞きて彼は大いに驚きて如何なる訳なるかと問ひしに僧の曰く、「今日迄汝が丹精なしたるものをよく見るべし。三十体の像は悉く苦悶の状現はれて円満具足の影を見る能はざらん。是何故なるかと云ふに、汝は仏を作らんと苦心の念が彫刻に刻みあげられたるにより像は斯くも苦みの影を宿し居るなり。斯るものを衆生に拝せしむれば衆生の成仏は得られざるのみならず、却て労苦の罪を招くなり。然るに今此像を見るに是は汝の姿に似て汝にあらず。大悟なしたる仏なり。我是を衆生に拝せしむるに何の躊躇する処あらんや。汝、死するに及ばず、安堵してながらへよ」と教へたりと。即ち三十体の像はフクに合ひ最後の一点はセンに合ふ。汝等此理を悟り居るや。大悟は此処にあり。
 すべて人間は窮せざれば通ぜざるは智識の至らざるによる。進退きはまりて初めて道を知るは汝等の世界の習性の如くに思はるれど帰する処は智慧の乏しきに過ぎず。如何に優れたりと考ふるとも人智には迷ひ多し。是を凡智と云ふならん。如何によく見ゆる眼(まなこ)ありとも人眼には狂ひあり。されば神眼を求ざるべからず。彫刻師は肉眼心眼にて仏を刻み僧は神眼にて見る。ここに大なる差ありしなり。然らば彫刻師の断食祈願は迷信なりしか。果して空しき労苦に過ぎざりしか。其は然らざりし。断食によって彼の心境は一変したるなり。然しながら彼には仏を見て我名を末世に残さんとの慾望は未だ清除されず、残存しあり。残るはその慾望のみにて煩悶はぬぐひ去られたり。行終りて希望の叶はざりしは彼に対する神の慈悲なりし。

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