未知日記霊話集千百二十三回 光明論 下巻 巻の九 鳥獣と自在に談話を交し得る底の人ならば少しは理解するならん。否其は望まれずとならば鳥獣の思ひを聞きわくるだけにても可なり。其すら望まれずば他人の思ひをさとり得る程度にても可なりと望むなり テツシン貴尊講義

未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の九 
教主講、テッシン貴尊解説
大悟篇  下
第一章 ギョウ の門
行者の修行生活の解説


             テツシン貴尊 講述
                   

 心に浮ぶとは己が知る範囲にて表現するを得ずとも是は言葉なり。生きて生れ出でたるなり。即ち是は言霊なるべし。符号には未だ構成しあらざるのみ。是を一種の符号に組織せば人間界にのみ通ずるに至らん。されどその符号を知らざる人には通ぜず。まして禽獣虫魚に於てをや。通ぜざるは当然なるべし。
 汝等が作詞の中にも、「もし草木にして魂あらば彼は斯くも云ふならん」とか記し居るにてはあらざるか。木も草も枯れざれば生あり。生あるが故に動ず。動ずるには是に与ふる動力の源あるべし。その原動力こそは彼等の魂なり。魂ありてこそ時至れば花を開きて実を結ばしむ。是を知るものは気候風土なり。されば草木は常に気候風土と交はりて相語り楽き生活を営みおるなり。言葉あればこそ気候風土は草木と語る。虫又然り。故にすべてに言葉あるなり。もとより泰岳は是等の識別ありしなり。彼はすべて生あるものの思ひを知れるによって其等を殺害するを厭ひしなり。然らば木を伐るは殺生として厭ふかと云ふに然にはあらざるなり。木を伐りて是を捨てるならば彼は好まず。その木が永久に死せざるよう使用するを希み居るなり。泰岳は鳥獣とも自由に話すことを得るによって、彼の言葉は無限にして尽きざる言葉を持てども唯人間同志の約束符号は知らざるなり。汝等此理を解するや。未だ解し難しと云ふ他なかるべし。
 大凡第五の門に学ばんとなす者ならば是等の解釈をなし得る底の予備知識なかるべからず。我、今願ふ処は一歩進めたる程度の人材を要求するなり。せめては鳥獣と自在に談話を交し得る底の人ならば少しは理解するならん。否其は望まれずとならば鳥獣の思ひを聞きわくるだけにても可なり。其すら望まれずば他人の思ひをさとり得る程度にても可なりと望むなり。汝等の云ふものを活かしてとの言葉は飾り言葉にすぎずして実を伴はざるは遺憾なり。ものを活かさんとならば先づ第一に己自らを活かさずばすべてを活かすことを得じ。汝等は己自らをすら殺しつつある事を知るか。知らざるならん。汝等はややもすれば誤って身体を負傷し其をすてをきて内臓に及ぼす病を誘発せしむる如きは、己を守らざるによるのみならず、肉体の各所を殺生したるなり。故に己は己を殺生して平然たるもの、如何にしてか他に及ぶ救ひなど思ひもよらざるべし。故に先づ己を本として他に及ばば従って理解は得らる。即ち自他は一如なればなり。

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