未知日記霊話集 第九百九十四回 光明論 上巻 巻の5 幼児の教育は母によりて育てざれば父の教育は余りに効果少なきものなり。何となれば母は常住坐臥暗示を与へ居るによって、父は母の比にはあらざればなり 教主寛大講義


未知日記 第六巻 光明論       
上巻 光明論 巻の五 
明鏡篇  その五
第五の明鏡   その3
人体に輝く光明
光明論上巻 最終章


                教主寛大 講述
                   196番


 無の中に生ずる動の力こそ暗示を起し、或は暗示を働かしたる原動力とも見らるべし。然りとせば智慧は暗示を生ぜしめ、動は是に従って働くと云ふ理由となる。故に幼児の教育は母によりて育てざれば父の教育は余りに効果少なきものなり。何となれば母は常住坐臥暗示を与へ居るによって、父は母の比にはあらざればなり。母は無極無より次第に虚無へ、虚無より実在に、胎児に暗示を送り居る故に、父とは比ぶべくもあらざることは論を用いざるべし。
 催眠術とか感応術とか云へるはこの相対無の応用なり。汝等の中には如何なる巧妙なる催眠術者に対ひても術にかからずと自慢顔に語る者もあらん。然しながら其は誇りにあらずして己が無神経の恥を語るなり。汝等は他人より声をかけらるれば必ずオーと答ふるならん。是即ち感じたればなり。他人より声をかけられて返事の言葉をなさざるものは無神経者なるべし。然らずば聾唖者なるべし。人と生れて感応導交せざものあらんや。汝等他人より謗らるれば怒り褒めらるれば喜ぶは是暗示作用にて、感応なしたる反射作用にして、所謂術中の人と化せられたるなり。然りとせば如何なる天魔鬼神と雖も通ぜしむるを得ることは易し。神に願ふ心にあやまちの有無に不拘通じ居ることも亦知らるるならん。その効果の良悪は巧妙なると拙劣なるとの二道にて顕著なると、顕著ならざるとの区別あるも亦察する事を得ん。即ち暗示作用の生ずる原因について述ぶれば、絶対無より相対無の間の働きなりと知らば可なり。是を霊光にて示めせば霊光より霊に通ず間と知るべし。
 是を一本の樹木にたとふれば根より初めの枝迄の幹の如しと知りて可なり。是等の説明を詳細に説き聞かすは次の巻、悟道篇に任せ、明鏡篇は是迄とすべし。
  (昭和二十年十一月六日~同二十一年一月十日)

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