未知日記霊話集  第五百八十七回  帰途案内記  重要記事です  死を明らめんとせば生を正しく明らめよ転界の巻  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音1265
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の二
転界の巻 
NO 121
厳戒の辞の説明          
                 セイキョウ貴尊 講述
 

 先づ、チと云ふ言葉は相手方に対して、我より語らんとする合図の言葉にして、シュとの間の無の音は、是より語らんとする目的の意味を、心に工夫して言葉に組織せんとなす間のゆとりに相当す。然して後のシュの音にてそれが言葉となりて相手に通ぜしめ、然してキュ、ジョウと次第に詳しく話を進め、センに至つて全く己が望を語り尽くす結果となると思はば可なり。チとシュの間の無音は、所謂祈念発願の音なれば、要はこの無の音に帰する事の大切なるは、推して知ることを得るならん。然して後の七つが、その祈念発願の意味を、完全に相手方に納得せしむる要具なるが故に、現はしかたの如何によっては、先方は聞き届け呉れるか、或いは聞き届け呉れざるかの、何れかに終る。故に己が目的をはたさんとならば、心をこめて先方に諾と云はしむるに至る底の力なくんば、目的は達し難からん。この理をよくよく認識して厳戒の辞を神に捧ぐるに当たっては、有耶無耶の心持ちにて祈りをなさば、通ぜざること多からん。故に此言葉を厳戒の辞と称したるなり。厳戒の辞とは己が心底より発する真実の言葉を云ふなり。故に無言詞音の間に、己が目的を心の底より現はしをきて、後の音をその力を、更に拡大強力になして他に心を移さず、真剣に願はざれば、諾の許しは難しとの念を強くせよ。然る時は何事も叶えられて決して否とは仰せられざるなり。我願ふ事の善悪に不拘、心の底よりかくと決意したる望みならば神はそのものの結果如何に不拘、望を叶へさせ給ふなり。
此法は文面に現はすとも理解は聊か至難なるべし。よって是は指導者によって直接に教へを受くる方納得は速からん。されば慈音はこだま会に於て、会員に対して円海より語らせられたる如く、尺度計を与へんと語り居りしは即ち是なり。さりながら此書は会員ならざる人にも読まるるものなれば、その内容を詳しく知らんとならば指導者の誰彼に至って教へを受くべし。然し此書によって会得理解なしたる人ならば、教へを受けずとも自ずと通ずる拝みはなさるる筈なれば、唯疑はずそれにて可なり。正しくさとれば迷ふことはあらざるなり。迷はずして拝みすれば正しく通ず。兎に角一心不乱になりて無音の時呼吸を止めよと云ひしは、その呼吸を止むる間に念をこらせよと云ふ意味なれば、それにて大要は悟り得る道理あるなり。呼吸をなさば念は砕けて組織されざるが故なり。此事にさへ注意し居らば後の七つに運びを進めて、一つ一つに力を強くし行く事の法は判明するならん。聊か言葉の表現が 不充分にして判断に苦しむならんと思へど、是を分かり易く説明すれば、却って後の結果に危険を伴ふ恐れあるによって、かくも曖昧に語りたるなり。

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