未知日記霊話集  第百八十三回  心に伝ふる無言詞と魂に伝ふ無言詞の相違  その8  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の三                        NO137 
 心に伝ふる無言詞と魂に伝ふ無言詞の相違   その8                                                   教主寛大 講述


 気の持ち かたによっては苦みと云ふ事はあらざるなり。心に かかることと気にかかることの区別を聞かれなば諸子は如何に答ふべきか。是を又魂にかかる事と、魂の気にかかる事との区別は又解し難からん。すべては気なり。肉体のわずらひを病気と称し居る諸子の思ひは誤ちなり。病弱なるが故に病気となることは云ふまでもなけれど、是を仔細に検討して区分すれば病気と病弱は二分せられる筈なり。汝等諸子は健康なる肉体には健全なる精神を有すと語り居れど、事実を深く研究すれば然にはあらざること多からん。是空と虚の相違あるによってなり。
 魂の気分強き人は肉体のわずらひに対してさのみ苦痛を感ずるものにあらず。されど心の気力のみ働せ居る人は肉体虚弱なれば、その肉体に囚はれて心を暗くす。故に苦みは多し。是等は心と魂の相違なり。獣類は薬を服用せずとも病苦を治癒す。是等は魂より受くる心の感じがにぶき故なり。他の獣類はすべて心を魂として生存なし居るによって、肉体の苦みも人間との相違あるなり。獣類の病苦がもし人間なりせば到底堪え得ること難からん。我等は獣類の苦みの程度を能く知る。故にかくは語りしなり。
 汝等諸子は肉体の虚弱を心の気に訴へ居るが故に、その苦みに堪えかねて果は自殺などなして苦みより遁れんとするなり。是を魂の気に迄委せ居らば肉体の虚弱と区分して生活するによって、自殺などはなさずして天寿を全うすることも得られるなり。修養修業とは心を魂に任する方法にして、別段むづかしき事をなさずとも己が魂を発見して、魂より霊に任する事に尽力なし居らば、其にて修養修業の眼目は全く整ひて、望は叶へらるると承知せば可ならん。肉体をのみ苦めて修養せずとも肉体を心に任せ、心を魂に任せ、魂を霊に任せ居る人とならば、最早修養修業は必要あらざるなり。是を名づけて人間界を度脱すと云ふなり。人間界を度脱してはじめて、魂のまなこ魂の耳が明らかとならばすべては明らかとなり、己が魂霊に感ずる力は益々加はる。其れと同時に己が魂霊より出づる光明は八方十方を照してあますことなし。慈音の如く既に死したるむくろ の中に、魂ををきあるが故に今尚息を通はせ居るなり。慈音にして心にのみ囚はれ居るならば、彼は七転八倒の苦悶をなして死を択ぶならん。魂と心との相違は慈音を手本とせば知る事を得ん。
 我、是を語り居る時慈音は云ふ。今隣家より贈られたる泰山木と云ふ一輪の花芳香を放ちて我等の心を喜ばせ居れど、もし是が人間なりせば如何あらん。己が手をきりとりて花瓶にさされしならばと思ふとき、うたた泰山木に同情して彼が身に思ひ遣りの心を厚くす。然してその恩恵の深きに感謝せずば泰山木は嘆かんと。慈音は我身に引き比べて樹木に感謝なし居る姿を見て我は同情の念を深くす。同じ花を見ても常人と慈音との差は斯くもへだたりあるなり。唯美はしき花よ。香しき花よとて徒に切りとりてはその木は嘆かん。話は横道に入りたり。もとに復すべし。

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