未知日記霊話集  第百七十七  心に伝ふる無言詞と魂に伝ふ無言詞の相違  その1  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の三                         NO130  無言詞のはたらきは空に属するか、虚に属するか  その6



 心に伝ふる無言詞と魂に伝ふ無言詞の相違     その1                                                 教主寛大 講述


 仏教者の云ふ如く頼み難きは人心、頼むべきは弥陀の本願と語り居るは、即ち心を頼まず魂を頼めよと云ふ我等の言葉に匹敵す。帰するところ弥陀の本願とは、汝等諸子の個々に与へられたる魂の一大事を教へたるものなりと思ひて修せば可ならん。無言詞を聞きて魂に通ずるにあらざれば、心のみにて受け入るる無言詞は浮べる雲の如く直ちに消滅す。心を魂によって左右するにあらざれば、天界の有様を知ること難き理は、是等の説によってほぼ解する事を得たらん。我前講に於て諸子に課しをきたる問題は、是等によってすべての答へは悟る事を得たらんと思ふなり。よって是以上くはしくは語らじ。
 兎に角虚と空の一体化によって念力を強くし且つその念力を空しき方向に向はしめず、空より空へと追ひ求めて智識の増大を計り居るならば、必ずや目的は達せんこと疑ひはなし。故に空しき方向に歩を進むること勿れ。汝等が世界の飛行機にも空路あるならん。その空路を定めずして空しき方向に向はば、目的の地には到達すること困難ならん其と同様にて諸子も一定の空路を定め、その空路に従って迷ふことなく飛行なし居らば天界に入ることは難きにあらず。宜しくよく考案工夫せよ。


     心に伝ふる無言詞と魂に伝ふ無言詞の相違





 無言詞は山川草木禽獣虫魚に至る迄、時々刻々間断なく伝はり居りて其がすべてを養育なし居るなり。我斯ることを語らば諸子は又迷ふならん。我この講の題目に対し心に伝わる無言詞、魂に伝ふる無言詞と語りて、心に感ずる無言詞魂に感ずる無言詞とは現はさざりしは、何故かを諸子は知るや。伝ふると云ふ言葉と感ずると云ふ言葉の文字の意味は我は知らず。兎に角伝ふると感ずるとの相違は是を無言詞にかへて考へ見よ。伝ふると言はれし時の気分と感ずると言はれし時の気分とに於て、何かそこに一種の割り切れぬ思ひを抱くならん。伝ふるとは他よりの流れにして、感ずるとは自ら受け入れての後に、現はるる意味となるは誰もがよく知るところ、されど我の云はんとする処はもし汝等にして言葉を知らざれば、伝ふると云ふも感じと云ふも如何なる意味かを解すること難からん。言葉を知らざる人に対して今汝の生命をとると云はるるとも、如何なる意味かを知らざれば唯黙するの他なからん。されど言葉なくとも殺害せんとする他人の心を己自ら感じなば言葉なくとも悟ることは得らるる筈なり。相対して言葉なくとも己自らそのものの意中を汲み取ることを得るならば、言葉の必要はあらざるならん。伝ふるが故に感ずるなり。伝ふることなければ感ずることもあらざる道理あらん。然るに全宇宙は分秒の間も休むことなく、無言詞を伝へ居るなり。故に題目の名称に対して伝ふると云ふ言葉を用いて、諸子に知らしめんと計りたるなり。されば諸子はこの書に記されたる文字より否言葉より更に奥深きところに、無言詞の含まれあることと承知してこの書を読むべし。この書に記るせしは表面のみにては解することは難し。故に書中に潜在なし居る無言詞を見聞する智能を働かせて読まずば何等の価値もなからん。文意は平凡なる言葉によって記され居るのみにて唯見れば小児が認めたる作文よりも劣り居るなり。されどこの中に含まれ居る無言詞は、大智者にあらざれば解することは得難し。是を読みて是を悟るもの汝等諸子の世界に指折り数ふ程の人よりなかるべし。未知日記前巻を読み尽したる人にして初めて此書を理解することを得れど、唯見れば拙劣なるものにて取るに足らずと思ふならん。我は万々承知の上にて認めさせ居ることと承知せよ。汝等諸子は日々食をとる。その食の味は知ることを得れど、肉体に働く養分の味は知る人たえてなかるべし。此書は其と同様にて味を送り居るにてはあらざるなり。養分の味を知らしめんがための教へなればその心して読むべし。口に入るれば味を知れど味はいたる後の味は知らざる如く、我等の教へは味はひての後の味を教へんとするなり。心に伝ふると云ふは口に感ずる味にして魂に伝ふるとは肉体全部に味はしむることの意味なりと知らば可ならん。

×

非ログインユーザーとして返信する