覚者慈音179  大霊界  心に伝ふる無言詞と魂に伝ふ無言詞との相違 その三  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の三                         NO132  





 心に伝ふる無言詞と魂に伝ふ無言詞の相違     その3                                                 教主寛大 講述


 或文士が書を発行したる時、数珠を商ふ主人が此書を見て笑いて曰く、「此書は名文なれどあまりに句点多くして、小児が読むには便なれど常人には、余りに大人気なし」と。
是を聞きて書を著はしたる人が、数珠を商ふ主人に対し、数珠を注文して、曰く、「二つに曲げてくびに掛ける数珠」と認めたる注文書を彼に手渡したり。彼是に答へて早速持ち行きたるに文士曰く、「我、汝に注文したるは二つに曲げてくびに掛ける数珠なり。然るに斯る大なる数珠は注文せざりし」と。数珠師、曰く「汝何故句点を附けざるや」と。文士曰く、「汝は我の書物を見て句点の要なしと語りしにてはあらざるか」と。
 諸子はこの話を聞きたることあらん。意味を通ぜしめんがためにわづか一つの句点は大切ならん。句点のなきところによって大ともなり小ともなる。句点とは即ち無言詞のはたらきなるべし。先に語りし天気予報のふる天気にあらずに於ても、句点の有無によって雨ともなり、又晴れともなるなり。されどをく所に依りて斯くも相違あるは、句点と云ふ無言詞のはたらきなるべし。
 数学に於ても1,00に対して、その点を外して100、となさば数の大小には相違あらん。是等は眼より聞く言葉なるべし。口より出づる言葉、眼より入る言葉、すべてに於て感じかたに異なる点の生ずるは、現はしかたの優劣によるとは云へ、帰する所言葉の不自由より生ずる結果に他ならず。されば言葉なくとも通ずる言葉こそ大切なるべし。蟻を見よ。蜂を見よ。蟻には蟻の言葉ありて通ず。蜂には蜂の言葉ありて己の天分を知り、又己の任務を果し居るにてはあらざるか。草には草のことばありい己の任務を全うし、然して他の分野を犯すことあらざるなり。人は人の分を知らず。他の分野を犯すこと多きが故に争ひはたえざるなり。己にして己を知らず。故に他の領土に足を入れて却って己自ら傷くる如きは、何と云ふ愚なることぞと早くめざむるにあらざれば、人として人の任務を全うすることは難からん。神は人を作りて仰せらるるには、我斯るものを作りて却って人を迷はす結果となりたり。されど是等は延びる力も亦きはめて強し。故に亡ぼすこともなさざるなりと、申されしと云ふ説も伝はり居るなり。然しながら事実は然にはあらざるなり。
 何となれば人を造り出す迄の順序は、一朝一夕のことにては造り出すこと難きが故なり。神は人を造らんとせば人を造ることは容易なれど、今直ちに人を造らんとして造り給ひしにはあらざるなり。神と雖も順序なくしてものを造る力はあらざるなり。人を造らんとせば順序なくしては得らるるものにあらず。もし神にして直ちに人を造らんとせばやはり順序を経ずば、造り得らるるものにあらず。時間空間を考ふる汝等衆人には、到底この理をは解すること難からん。
 例へば汝等もし神の傍らに至り、神に対して人を造れよと願ひて、神はよしと仰せられて直ちに汝の目前に、人を造り出し給へば汝等は驚くならん。されど神は造るべき順序を知り給ふが故に、時間空間を超越して直ちに現出せしむる力を有せられるが故に、即座に現はし給へど、その順序なくしては神と雖も造り得らるるものにあらざることは云ふ迄もなし。斯ることは汝等諸子に語るとも到底理解することは得られざるべし。又理解せずとも可なり。斯ることを知りたりとて諸子には何等の利益ともならざるが故なり。唯聞きて知るにすぎざればなり。
 今慈音は欣情と語りて曰く、教主はこの所同じ言葉を多く重ねられ居るは、如何なる理由かと迷ひ居るに対し、我はこの所の文章を書きあらためよとは言はざるなり。是には深き仔細あるによってなり。我と雖も斯る子供だましの如き説は充分に知りて記させたる言葉なれば、此中に含まれ居る重句に対して何か求むるものを求めよと命じをくなり。故に今後と雖も曖昧なる言葉の数多き時却ってそのところを重視せよ。軽率に文意の拙きを嘲り嗤ひ見のがすこと勿れ。

×

非ログインユーザーとして返信する