未知日記講話集   無言詞界の門について   教主寛大講義

一方無言詞界に進みたるものは如何   
無言詞界の門について        
                    教主寛大 講述


 さて一歩無言詞界の門に足を入るれば、、予備道場とは全く異なりたる所にして、予備道場の如く静寂なる場所にあらず。恰も、山間僻地に住居したる人が都市の賑はしき所に導かれしと思はば可ならん。田舎者が繁華街に足を入れて驚異の耳目をそばだつるに等し。かくも複雑繁多なる場所を、何故無言詞界と云ふやと思ふならん。光は眼を射、音響は耳を聾す。されど汝等諸子の世界の繁華街とは全く相違なし居るにて、光と云へば汝等諸子は繁華街の色光を連想することなかれ。我等の云ふ光とは光明を云ふなり。音と云へば楽音騒音を連想するならん。是等も我等の云ふ音とは、霊音を語るにて雑音騒音にはあらざるなり。鼻には霊香を感じ、身体には快感を感ず。先づ是等も想像して考へにうつし見よ。汝等諸子は如何に想像をたくましくすとも、到底この処の真相を認識把握することは難からん。されど大体はかかる世界ならんと連想して我説を聴聞せよ。
 即ち霊音は何事かを語り、霊光は何事かを知らしめ、霊香はなにものかを与へ、、快感は何事かを知らしめ居ると承知せよ。この所にて一度耳を傾くれば、全宇宙のすべては聞え、眼を移せば全宇宙のすべてを見尽し、鼻をそむくれば全宇宙の醜美は解せられ、身体の触覚によって霊気を感ずれば、すべての変化を推知することを得るなり。是等は無言詞の門にして、未だ無言詞界の中にはあらざることと承知せよ。さればこの門に於て暫時又教へを受けて、いよいよ無言詞界の絶対境に移さるると知らば可なり。
 先にも語りし如く予備道場に於て、五大鏡の学理を修め尽くして後此門に入りて、更に八大門の事柄を修得する教へを受くるなり。然して是等のすべてを会得してここに初めて、絶対界に移さるると知らば可ならん。
 汝等、衆人よ。道はかばかり遠し。人間性と動物性の区別をも知らずして徒に天界を望むとも、斯くも広大なる処のある事に心附かば徒に其日其日を過し居りては到底望は達し難し。又我等、汝等衆人に斯ることを語るとも、唯机上の空論となりて終るのみ、何等詮なき事なり。されどなせば必ずなるものにて、なさざれば唯一時の夢物語に過ぎざるなり。然して汝等諸子は思ふならんよし天界に斯る処のあることは事実なりとも、其処に到りて何となるべきかと思ふ輩もあらん。天界に上りて何になる事ぞと云ふが如き考へを持つは、動物性より未だ抜け出でざる人間なるがゆえに、斯る考へを抱くなり。動物性を離れて、人間性に進みたるものなれば、斯る考へを抱く人はなかるべし。汝等諸子の中に金銭も要らぬ、名誉も要らぬ、生命も要らぬと豪語し居るものもあるなり。真実斯る考へを抱く人ならば、其人こそ真実人道を知る人なり。されど斯る言葉を口にする輩には、物の理を明らめずして自暴自棄に陥りたるものに多し。斯る人こそ何になる事ぞやの類の人なり。自暴自棄よりすべてを捨つるに至る程度迄、修養修行したる人にしてはじめて大なる道が得らるるなり。無智者の諦めは自暴自棄にして、真の明めにあらず。すべてを知り尽くして明らむる底の人にして、はじめて大道は開らかるるなり。修養修行もこの程度迄至るにあらざれば、動物性より人間性に入ること難し。

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