未知日記霊話集    如意界とは如何なる所か   教主寛大講義

未知日記霊話集   如意界とは如何なる所か   教主寛大講義


 如意界については「未知日記」に於て教へをきたればくわしく語るの要もなし。されど語り残せし事柄をいささか説明して補充しをかん。如意界は洗魂所より移されたる魂を試験する場所にして、所謂完全なりや、否やをためす所なり。諸子の中には肉体を有する間に行全くなりて、此所に運ばるるものも多し。慈音の如きもその一人なり。ミキョウは慈音をここに連れ来りし時、種々様々の事を考ふる勿れとかたく誡めたるも、此所は直ちに意の如くせらるるによって危き事を考ふれば、直ちに目的の如くなる場所になるによってミキヨウは警めたるなり。されば如意界とは如何なる事を学する所かと云ふに、此所を離れて、次の任務に服するものに対して、皆其々の方法を伝授する所にて、此所に集まり居るもの無念無想の姿となりて、その教へにあづかる大切なる場所なれば、誰一人として声を発するものもなく粛として謹聴して、教へにあづかり居るなり。その神々しさの有様は汝等衆人には、到底考へも及ばざる底の場所と語るの他なし。教ゆるものも声なく言葉なく無言詞にして伝授なし居るに不拘、聞くものには皆その分野に従ひて、自然に理解力を認知して、さとり得らるる不可思議なる教へをうくる所なり。教ゆるもの語らず、教へらるるもの聞えず、沈黙の裡にさとりを受くると云ふ如きことは、下界にある汝等諸子には到底想像もなし難からん。
 選魂階及び洗魂階更に如意階と区分せられ居れど、それは帰するところは一なり。例へば一つの学校にて教室が異なると同様と考へなば可ならん。ミキョウは何故に慈音に様々の事を考へつつ聞く勿れと教へしは他ならず。もし慈音が如意界に於て天界に行きたしと思ふ心の湧き出づるならば、直ちに肉体を離れて目的の方向に向はしめらるるによって、ミキョウは誡めたるなり。慈音にはその後励むべき役目を有し居るによって、此処にて肉体を離れなば、たとひ目的の地に移さるるとも亦返さざるべからす゛。其時肉体が荼毘に附せらるるならば、唯々宙に迷ふの他なきを知るによって、ミキョウはかたく戒めて聴聞せしめて、彼の修行の力を養育したるなり。
肉体の力具備らばかかる場所にさへ到ること難きにあらず。醒めての後の慈音は是が錯覚作用によって斯かる事のありたるならんと考へ居れど、其は錯覚にあらずして事実なり。夢にはあらざりしなり。此理より考ふるもうなづかるる如く、霊魂不滅の理は察せられる道理あるに不拘、この話を聞きたる諸子は是を信ずることあたはざらん。其は信ぜずとも可なり。神は人間を地上に造りて、その組織を汝等衆人の如くに造りをき給ひし故に、その信不信は何れにもあれ、咎とはならざるなり。人間の肉体は唯々生きるがまま生きて育ち居らば、終生稔りは得られずして終る。是を動物性組織と云ふ。恰も草木のそれに等し。汝等衆人よ。草木同様にて肉体を育て居らば、動物性にて終る他なきことを知りたるならば、人間性の一大事を早くさとりて、是に充分の肥料を与へて完全なる稔りを得ることに努力せば如何 !
無知蒙昧の慈音に於てすら、かく迄行じたる者のあることに心附かば、汝等衆人なしてならずと云ふことあるべき道理なし。なさざるが故にならざるなり。日々の任務を肉体の生活にのみ囚はれ居りては、唯々動物性を育て居るにすぎざるべし。肉体ものの数ならず。軈ては亡びん。肉体亡びなば心も滅す。滅せざるものは唯汝等衆人の肉体に宿り居る何かならん。其は何ものなるかを想像し見よ。肉体と共に亡ぶものは心なり。心は肉体に従ひて影を没す。されどその心を働かせ居りたるものは何なりしかをよくよく追求して考へを廻らさば何ものかを発見するならん。
 人間は死すれば火の消えたると同様ににて、一代果なりと語り居る人は多し。肉体と共に火の消えたる如く消え失するは、其は心にして、魂にはあらざるなり。心を育て居りたる汝の親は何処にありや。汝等衆人推理力を延長して、更に新しき何ものかを早くさとり求めなば如何。汝の心の親は汝の魂にあり。その魂が汝の心と共に滅するものならば、我等は汝等諸子に対して別段教へをなすの必要はあらざるなり。一本の蝋燭に点火して吹き消さば光は消ゆ。されど点火すれば又も光を放たん。此理を知らば推理力を拡大強化せよ。然して自得するにあらざれば本然の魂を見ること思ひもよらず。
 我、慈音に対して「汝はかくも肉体の苦しみを受けて、死にたしとは思はざるや」と聞きたるに、彼曰く「死にたくもあり、死にたくもなし」と答へたり。我は笑ひて彼の頭に手をのせたり。然り。然あるならん。死にたきは肉体にして、死にたくなきは魂なり。その魂が稔らざるうちは死にたくなきは当然なるべし。是魂を発見したる慈音にして口走る言葉にして、汝等衆人には斯かる言葉を称ふるもの稀なるべし。
 完全なる魂を得ば死ぬの憂ひなし。汝等諸子は死ぬと聞かば滅すると考ふるならん。死ぬと滅するとは相似て等からず。死ぬとは働きの力なきものを指すにて、滅するとは亡び尽すを云ふなれば、従って死と滅との相違はうなずき知るならん。よくよく思惟して死せざる底の行をなせよ。あやまてば死するなり。魂を死なしめては宙に迷ふは当然なり。迷ふ魂をつくるなかれ。

×

非ログインユーザーとして返信する