未知日記霊話集    ミキョウ貴尊講述  拝む修行の第五の階について  その二

テッシン講録再続篇 下      未知日記第七巻
拝む修行の第五の階について        
          インショウ、ミキョウ貴尊講述



 第五の拝みに入りて此処に初めて感謝の拝みに変ず。すべてを感謝する拝みなるにより従来の拝みの如く、肉体的の拝みにあらずして精神的の拝みとなる故に、外面に現はれ来る拝みなれば、従って外を拝む形となりて内外一如となさんとする行法なれば自にも通じ、又他にも通ずるなり。故に自らも益し、他をも益せんとの拝みに変じ行くなり。
 我、斯く語るとも世人には容易に理解するを得ざるべし。百聞一見に不如、行じ見るべし。然らば自づと理解するを得べし。我等は喰ひて味を知るによって勧むるなり。如何に美味なりとも喰はざれば無味なり。さらば世人は先づ食して我と共に美味を語らん事を、我は望むなり。
 そはとにかく、第五迄を仏教にて説明すれば自力の拝みに合ひ、第五よりは他力の拝みと思はば察するを得るならんと思ふなり。さりながら宗教の自力他力とは相似て等しからざるなり。世人は拝むと云ふに対して特殊の業の如く思ひて、何か拝みによって求めんとの心より宗教くさく考へて家庭の業と切り放して修養するは悪し。拝みを家庭に取り入れて朝夕の業務に加へて行ふべし。朝夕人と顔を合はせて挨拶を交はす。是拝みなり。又人より仕事を手伝はれて感謝の言葉を贈るも亦拝みなり。故に拝みを特殊の扱ひにする勿れ。商店の主人は客に礼をおくれど、客は礼せざるは何事ぞ。斯る拝みは片拝みなり。主、礼を以てして、客、礼をおくるは当然なり。世の中は斯る偏頗あるによって商店の礼は口先の礼にて通ぜざるなり。客又然り。故に世は欺き欺かれ、是は一般習慣となりて巧みに欺くを賢者なりとて褒めそやす不心得者すら現はるるなり。主客相むつみて相互礼より流るる真心あらば、欺く心の生ずるものにあらず。一家に於ても亦同様なるべし。人もし我を拝するあらば、我は神にも仏にもあらず、縁起でもなき事をする人かなと云ひて怒るは一般世人の心持ちなるべし。されば世人は神仏ならでは拝むことにあらずとの念に駆られて拝みをなすことは容易に行はざるならん。有難うと云ふ言葉は拝みと同様なりと知るべし。故に他人我を拝せば我も亦拝せざるべからず。是魂と魂の結合にして所謂霊と霊と疎通したる姿なりと悟りて行ふべし。されば神仏を特に拝む必要は要せざるなり。拝む心を備へ居らば神は是を知るによって特に拝まずとも守り給ふは論ぜずとも明白なるべし。天理に合ふ故と知るべし。怒る心ををししずむると云ふも拝む心なり。又人は明らめは大事なりと云ふも、即ち明らめの拝み心より現はるる現象なりと云ふも、決して過言にはあらざるなり。すべて世の中の善悪は拝みによって如何にとも変ぜらるるにより、最も大切なるは拝みなりと心得、内面的にも外面的にも一括して行はば可なり。

さて前に語りし如く内面的自力拝より次第に向上して、外面的他力拝に及び来らば、何を拝するかとの不審を覚ゆるならん。即ち今迄は引力性の拝みにして、今後より圧力性拝となる相違なり。引力性とは修養を意味し、圧力性とはその修養したる力を現はすことを意味すると知るべし。即ち学業を終へて世に処せんとなすに等しく、又先に語りし旅装を整へて旅立んとなすに等し。故に今迄の拝みは自らの為にして、今後の拝みは他の為に尽くす業なりと思ひて行ふべし。自とは何を指し、又他とは何を語るか。曰く、自とは肉体を示めし、他とは心を現はす。所謂是によって身心二道に通ずるなり。即ち是より精神の芽生えが肉体より生じそめしと思ふべし。故に未だ肉体の力に依らざるべからず。よって此期より肉体七分、精神三分の頃なりと思ひて修養すべし。此期の頃にはややもすれば肉体感情に走りて精神をおろそかにする傾向あり。是にかかる時は其心して拝みせざるべからず。
 例へば人より事を依頼せられて、其人の為専心尽くしたるに不拘、其人に裏切られて其要件が水疱に帰したりとせんか、斯る場合精神的ならば己の至らざりし事を詫びる拝みをなせど、其が稍もすれば肉体的に引き戻されて内心安からざる拝みに変ずること多し。すべて思慮ある人なりとも平素他人に接する場合、彼は好まざる人なりと思へど口には斯くとも出さず、如何にも好める人に接する動作をなすは是肉体的精神的の二重二方に働く故なり。
 第五期の姿は此種とは全く異なりたる二様の働きなることは験したるにあらざれば全く知る由もなけれど、例は前述の如きに類すと知らばうなづかるべし。此期に達せば前述の如く依頼者に裏切らるるも肉体的に引き戻されたりとも安からぬ心、否おだやかならぬ気持ちなどは起らざるも、或一種の考案力を生じ、己が任務を至らざる拝みを覚ゆれど、そは寸時に消滅するものなり。

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