覚者慈音153   妻の法名をつける

 我が家にもこれとそっくりの柴犬がいる。年は四才、人間で云えば二五才の妙齢の
乙女ということになる。名前はさくら。なかなかのおてんば娘だ。昨夜も雷が鳴った。
するとどうだ、頭隠して戸棚の中にすばやくもぐりこみ、キャン、キャンと鳴きっぱなし。
犬を見ていてつくづく可哀想に思うことがある。人間のように感謝の言葉が伝えられないことだ。勿論、しっぽは振ってもその場かぎりで、あとはすっかり忘却の彼方。
このワンちゃんが仮に厳戒の辞を称えることが出来たなら来世は間違いなく人間様になれるだろうに。君も僕も互いに前途は遼遠、これからも長い長い錬成の旅が待っている。



 僕は昨年三度も救急車に乗った。一度目は全くの人事不省。車で運ばれたことも覚えていなかった。気がつけば病院。そんな身体故、自分の死というものを真剣に考えるようになった。厳戒の辞も以前とくらべ自然と力がこもる。
 その厳戒の辞のことをこのフログを借りて、二度その言葉の解説文の全文を載せたことがある。僅かばかりの人がそれに眼を通しただけだった。この言葉はあの慈音師ですら未知日記を筆記されて七年目にして漸く教えられたるものだ。是はこの書の最大眼目ととも称されるべきもので軽々に取り扱うべきものではなかった。それを今深く反省している。


 僕は母親の法名を自分で付けた。慈音先生の慈を頂き慈照とした。ついでに妻にも付けた。衛藤慈声さんの名をそのまま頂き慈声とした。二人の名はともに寛大が命名された。寛大から直截に法名を下賜されたのは慈音さんと慈声さんのふたりのみ。妻はとても気に入っているようだがおそれおおくて勿体ない、勿体ないとさかんに連呼する。で、僕は妻のことを「勿体ないばあさん」と呼ぶことにしている。
さて次に自分の法名はどうする。性格的にも慈音さんの慈はとても気恥ずかしくてつけられない。今は未だ模索中。でもそうそうに考えておかねば。勿論、院号などは全く不要。敬虔な仏教徒ではないため釈の文字すらも不要。○○慈照。○○慈声それだけで充分だ。
慈音師の俗名は伊東幸吉、父の滅後四郎を襲名しそして寛大より慈音の名を頂く。
衛藤先生は俗名は衛藤欣、慈音師の許では欣情、そして寛大より慈声のおくり名を頂いた。
 僕は七年前、父親が亡くなったときにお墓を建てた。それは平凡な普通の白の御影石だが普通、南無阿弥陀仏と彫る処を厳戒の辞 チ。シュ。キュ。ジョ(ウ)。ギョ(ウ)。コウ。フク。センの一五文字を彫つてもらった。世界で唯一つのお墓だ。さぞかし寺の住職もそれを見て、「何だ、これは」と首をかしげたことだろう。「変わったお方だ」と
住職だけじゃない。僕の兄弟も息子夫婦も、みなそれを見て「何これ」と溜息をついたにちがいない。誰も厳戒の辞のなんたるかをもしらない。でもやがていつか解る時がくる。この厳戒の辞の何たるかを知る時がきっと来るだろう。
 昔、学生時代敬慕していた文学者の亀井勝一郎のお墓を多摩霊園に行きひとりで拝んだ。すると居並ぶ、どでかい豪族のような墓が林立する中で、彼の墓は木の墓標一本だけがひっそりと立っていた。亀井勝一郎ここに眠るとだけ記してあった。先生らしいなと思った。「ああ、そうかこういうのを孤高、孤高の人と云うんだ」
さきほどネットで調べたら、今は黒の御影石で裏に「歳月は慈悲を生ず 亀井勝一郎」と書いてあつた。
 今の若い人は彼の名前すらおそらく知らないだろう。彼は戦時中、執筆中の「聖徳太子」の原稿をいつも鞄に入れ、防空壕へそれを持ち込んだと云う。まわりはすっかり焼け野原。出版社は焼け落ちて将来それが印刷される希望すらないというのに。彼は身命を賭してそれを護った。現代の作家でそれほど死を賭して迄の覚悟をもって執筆されている人はいるか。おそらくいるはずもない。先生はガンでお亡くなりになった。普通は壮絶な痛みを和らげる為にモルヒネを使うそうだが、先生は自分の死と対峙し、死そのものを凝視するために敢えてそれの使用を拒絶したそうだ。 
享年59歳(超勝院釈浄慧居士)先生のご冥福を心からお祈りしたい 。
 東京に行く機会があったら、是非とも伊東慈音先生と衛藤慈声先生、そして坂井哲子先生のお墓にもお参りしたいと思ふ。僕はまだ衛藤先生のお顔すら知らない。慈音先生の身内の方にもお会いして、写真をお借りしてこのブログにも載せたいと思ふ。慈音先生に私淑される以前はクリスチャンであったと聞く。きっと天界からご覧になって居られると思ふ。
当ブログにも掲載した「円海大師の出家」はこの慈声さんが著したものだ。時は赤穂浪士の討ち入りがあった元禄年間である。大師は土佐の国に生まれ幼少の頃、父を何者かに討たれ、当時の武家の掟にならい主君に願い出て仇討の旅に出られた。仇を求めて何年もの間諸国を経廻るうちに路銀を使い果たし、仏道を修行する者が宿とする樹下石上をねぐらとする生活が続いた。或る日、旅で出逢った一人の僧に懇篤に諭されて仏門に入られた。おそらくは臨済宗だったろう。そこで数年間の修行をなされ山岳信仰である修験道に進まれ、更には行者道へと歩まれた。円海大師の修行に関しては未知日記、光明論下巻、テッシン講録、三世と四世論そして因果論に詳細に語られている。齢百八十を越えて天の命を受け昇天されて、今はミキョウ貴尊として天界で働かれておられる。仙人としての諸々の修行(テツシン講録を参照)、そして天界の無言詞界での修行などを挿入し、多次元に渉る真実の物語を小説化、もしくは映像化したなら多くの耳目を集めることだろう。それと同時並行して伊東慈音さんの生涯をも絡み合わせ、天界で働かれる天使の方々の言葉をもドラマの中に挿入する。きっと今まで誰も見たこともないような稀有壮大な作品ができあがるだろうに。このドラマを見ることによって多くの人々の生き方を根底から変えてしまうに違いない。


 さていよいよ明日から令和の時代がはじまりますが、ネットで調べたら次の文章がみっかった。それは
「阿辻哲次先生の説によれば、令の『良い、立派な、素晴らしい』の意味は霊の字から来ているのです。霊の旧字は二十四画もあるため、古代の中国人たちは霊の字を書くのが面倒になって、同じ発音で簡単に書ける令の字を霊の当て字として使っていたのです。時がたつにつれて霊の字の『人知では計り知れない、神聖な、よい、優れた』という意味が令の字に移りました。令月は実は霊月なんです」
この七十年前に書かれた未知日記の中に「霊に和する」ということばが数多くかかれている。出典は万葉集なのかもしれませんがここには貴尊方の考えがひそかに取り入れられているのではないかと僕は拝察する。霊とは神の分け御霊を云ひ、神に和するとの意味がある。貴尊の真意がここにあるならこの令和の時代はきっと素晴らしい時代になると思います。

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