石原慎太郎の「わが人生の時の会話」より   沖縄の少女を救はんがため自らの命を賭して戦った青年の話

 僕は今まで彼の書いた小説は殆ど読んだことがない。でも若いころのスパルタ教育からそれ以後の評論は数多く読んできた。昨日家族を連れて県の図書館に行って、そこで館内にある書棚から石原慎太郎の書籍を探したけれど、僅か五六冊ほどの本が見つかっただけ。そこで館内の蔵書をネツトで検索したらなんと百五十冊以上の本がヒットした。その中からあの懐かしい「スパルタ教育」と「永遠なれ、日本」それに「わが人生の時の会話」の三冊を借りてきた。未知日記以外の本を読むのは本当に久しぶりだ。そこでわが人生の時の会話の中で感動した挿話を要約してここで皆さんに紹介しよう。
 内容は慎太郎さんが母と一緒にテレビを見ていた時、何かの事件が画面に映っていたのでしょう。母親が「最近の日本の男は本当にだらしなくなったね」と彼に話しかける。そこで慎太郎さんはある話を思い出す。ここからストーリーが展開してゆきます。
それは返還前に実際に沖縄で起こった事件のことでした。米兵が三人、学校から帰ってきた村の娘を強姦しょうとした。そこへ若い男が畑仕事を終えて帰ろうとした時、偶然それを見てその蛮行を止めようとした。慌てた米兵の一人が若い男の胸を拳銃で撃った。男は血を吐いて倒れる。米兵達は逃げる。娘は通報して男を車で病院に運ぶ。しかし手当の甲斐なく男は死ぬ。その後、警察に逮捕されることなく、米兵達は配置転換ということで、本国に召還される。
 若い男には両親が居た。母はその事件の後、ショックですぐに死んでしまう。残された父親は茫然自失して、まるでなにかを待つかのように、来る日も来る日も海を見つめている生活が続く。慎太郎さんは浜辺に佇む老人に語りかけた。
「息子さんはアメリカ兵に撃たれて亡くなったんですってね」
老人は云う、「あの時、息子に助けられた娘さんは一年前にお嫁に行ってね。とても可愛いお嫁さんでしたよ。それがついこの間、生れた子供を、わしのところまで見せにきてくれました。息子もきっと満足だったろうと思います。あれは病院で息を引き取る寸前まで、娘さんは無事だったかと、何遍も何遍もわしに聞きました。その娘の父親が息子の手をとって泣きながら礼を言ったら、息子はそのまま眠るように死んでいつてしまった」
 慎太郎さんは言う、「せめて、大怪我してでも息子さんが生きておられたら良かったのに」と、すると父親は云ふ、「いいえ、私は満足しておりますよ。死んだトキオも同じだと思います。あれでよかったんですよ。息子が死ぬことで、娘さんが助かったんですから。人にはそれぞれ役目がありますから。あれは男でしたから。それが男の役割なのですから。だからわしもあれと同じように満足しております」と低い声だったがきっぱりと云った。
老人の面には乾いて澄んだ表情が浮かんでいた。


 上手に要約できなかったから、皆さんに感情がうまく伝わらなかったかも知れません。でも僕はいままで何遍もここを読んだのですが。涙が出てとまらず嗚咽してしまいます。ここを読むたびに、男とはどうあるべきか、とても考えさせられます。学問や、知性があるとか、社会的地位があるとか、そんな表層的なものをすべて拭い去って、あとに残る根源的なもの。これが絶対的な男の評価、価値を決めるのだと思います。
 知性とは全く無縁であるこの親子が、真の教養とは何かを僕たちに教えてくれたように思います。暗いニュースが多い中で、自分の死を顧みず人を救った話も沢山あります。自己犠牲の最たる人は当然、イエスキリストを嚆矢に挙げねばなりませんが、市中にも多くの無名の小キリストも居られたことは確かです。時代は悪化の一途を辿るのではなく、一進一退を繰り返しながら着実に、螺旋の緩やかな階段を登るが如く、善なる世界を指向してゆきます。あの亡くなった若者の魂は一気に幾つもの階層を飛び越えて天界の安らかなる処に置かれたことでしょう。

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