覚者慈音1295 未知日記 第十巻 帰途案内記 巻の三  上界の巻 セイキョウ貴尊講義

覚者慈音1295
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の三
上界の巻 
NO 149
更に八七六流界に到る迄
                 セイキョウ貴尊 講述
                    2019.8.12


 六流界に至っては、心意一体化したる生活にて、主客の区別あらざるが故に、是を心意界と仮名なしたるなり。更に進んで五流界ともならば、既に心意の悩みを解決し、魂を主とし魄を客としての任務なるが故に、是を魂界と仮名したるなり。四流界に至っては是と反対に、魂を影とし魄を表面化しての任務なるが故に、是を魄界となしたり。三流界に至らば魂魄共に同化してのはたらきをなし居るによって、是を魂魄界と名づけたるなり。又二流界ともならば、既に魂魄の任務は果されて、霊的に化せられたれば、その任務は霊的のはたらきをなし居るが故に、是を霊空界と称し、一流界に至っては神に接近して、その任務は神に属するが故に、霊神界と名づけたり。然して真の神の世界は、基礎なるが故に、是を無言詞界と仮名するの他なきなり。斯く其々に区分して其一々の界の有様を聞くならば、従って世人の心に修養の道は開らかるる筈なりと思ふが故に、童話小説の如く考へて、徒らに聴き流すことなきやぅ注意なしをくものなり。よつて今後八流界とか七流界とか云へる言葉を用いず、心界意界と語る事となしたれば、承知せられたし。然して是はすべて、仮名なる事を附言しをく。我等先に語りし九流界のすべてを認識せんとならば、先づ身心界と仮名したる点より、照し合はせて聯想なし見よ。然る時は朧気ながら頷かれて、世人の心に何か一種の感銘するもの、あらんと思ふなり。世人の世界は肉体本位なるが故に、身勝手の考へをおこし、常に争ひの断えざるならん。是等は肉体を主とし、心を客としての生活なるが故に、斯る煩はしき世渡りをなし居るなり。既に九流界ともならば心も身も一体化なし居りて、身心共に安らかなる生活をなし居るが故、身も傷かず心も従って安らかなり。斯る生活なるが故に争ふことなく、人類は平和の交はりをなして、更に前途の光明をたよりて進み居るなり。世人の世界との相違は是によつても頷く処はあらざるか。

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