覚者慈音1276 未知日記 第十巻 帰途案内記 巻の三 上界の巻 セイキョウ貴尊講義

覚者慈音1276
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の三
上界の巻 
NO 132
          
                 セイキョウ貴尊 講述
                    2019.8.08


 クゥワオの事を考ふれば世人は人として生を享け、クゥワオにも劣る生活を営み居りては、動物と人類の区別は那辺にあるかをすら知ること難からん。まことに恥づべき事ならずや。人智は磨けば磨く程前途を明るくす。然るに動物にありては磨かんとするも進むあたはず、故にクゥワオの如く苦みを招き居るなり。世人は此所に眼を向け耳を傾け、然して人智ははるかに高きことを知るなれば、この高き程度迄進み行かんことを何故望まざる。肉体を人間と考ふるが故にかくも迷ふなり。肉体の如何を考へず、我は人なりとの思ひを深くせば、眼は一つ足は無くとも可ならん。世人はもし人と生れて、一つ目小僧一本足などに生れなば、恥ぢて自殺するならん。クウワオの話を我等語りしは世人をして、肉体の如何を論ぜず、人として生れし喜悦を与へんが為なりし。七流界八流界に於て八本足の人間あることを語りたり。汝等の考へにて斯る奇形児生れなば、世人は恥ぢて是を殺傷するならん。然るに人として生れたるが故に、此界にては不具者としての取り扱ひはなさざるなり。其は神の叡慮より下されたることを知るによってなり。是等の事については追々語るべけれど、今は九流界の事を語り居るが故に、是は講を重ねて語る事とせん。
 余事は兎に角九流界の下部に於てすらたとひ人種異なると雖もすべては人なり。人なれば彼我の区別なし。故に人としての生活を営み居るによつて、たとひその界の人類が幾億ありとするとも、一心一体の関係となるによつてすべてを一に帰して生存なし居るなり。然らば中部ともならば如何にと云ふに、下部とは異なるところなけれど、唯智慧の程度の下部よりはすぐれたる故に、その界の様は自づと異なる生活をなして、益々智慧を深くなし居るなり。
 我、転界の巻に於て語りたる九流界の事柄は即ちこの中部に属すと知らば可ならん。下部に於ては土地々々によつて言語を異にし居れど、中部に至っては既にかかることなく一界悉くが言語を同じくするによって、言葉の為に時間空間を空費することはあらざるなり。例へば甲の土地の人が、乙の土地の言葉を知らんが為には時間を要す。されど一界悉く同じければかかるものの為に時間を空費することもあらざるならん。すべてはかくの如く何事に於ても、下部よりはすぐれたる世の中を現出なし居るなり。

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