覚者慈音1255  未知日記 第十巻   帰途案内記  巻の二   NO 111   セイキョウ貴尊講述

覚者慈音1255
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の二
転界の巻 
NO 111
                  セイキョウ貴尊 講述
                    2019.8.04


 そもそも上界の悉くが安楽の場所かと云ふに然らず。即ち転界とは汝等が住める世界より他の世界に移転するを云ふにて、上界に上ると云ふは安楽の世界に住するを云ふなり。上界へ上ると又転界するとはかくの如く相違あるなり。我等世人をして上界に昇らせんと計り居るにて、他界に移転せしめんとは計り居らざるなり。世人の修養修行の程度によりては、転界すると昇階するとの相違あることに、先づ考へを廻らす必要あらん。訳もなく生きて命終らば、何処に運ばるるともそは神の心にまかすの他なしとて、任務をおろそかになすこと勿れ。任務をおろそかにせば転界はなし得らるれど、昇階することは許されざるが故なり。昇階と転界とにはかくの如くの相違あるによつて、肉体を有する間に是等の界を見定めて、昇階の方向に歩みを進めずば目的は達し難からん。光明論に於て教主の示めし給へる五大鏡八大門の、大自然より造り出だされたる空界より、実界に現はれたる処を仔細に研究するならば、行くべき順路は察せらるるに不拘、世人は未だその導きすら何なるやをも知らずして、夢物語の如く考へ居りては所謂、宝の山に入りて手を空しくして帰ると云ふ譬喩の如くにて、何等得る処なかるべし。されば研究に研究を重ね工夫に工夫をこらして、八大門の研究或は五大鏡の研究に没頭せば、自づと世人の心に道は判明して迷はず進むことを得ん。
 世人のよく口にする有相(うそ)より出でたる信(まこと)と云へる言葉の如く、人は空なるものを聯想して、其によって実在せる真を生み出すこと多からん。すべて科学的の発明は嘘より出でたる真なるべし。ものを想像してその想像力を理によって考究なし居らば、実在的の真は得らるるものなり。されば光明論に於ても、世人は書物の上にまなこを致して其によつて想像力を伸ばし居らば、従って信は成立して軈ては成就することの理もうなづかるるならん。肉体を異国の地にをきて故郷の妻子を思ふ時、既に肉体と心とは分離せられて肉体は異国の地に、心は我家に帰り居るにてはあらざるか。是即ち転界なしたる姿なりと知らば可ならん。異国の地にありて故郷の妻子の有様を空想する時、妻子亦汝の身の上に思ひをいたし居るならば、相互の心が一体化して空想ならぬ真実を生むこと、しばしば体験することはあらざりしか。斯る事はよく誰もが経験する処にて、何月何日の夜何時頃汝は我もとに来りしと云へる如き、例は少なからずあるならん。是等は肉体の転界にあらず。心と心が相互に転界なしたる姿なりと知らば、その事柄より推測して五大鏡八大門を想像し居らば、軈てはその実状のまことを肉体を有する間に、確実に認識すること難きにあらざる道理を考へなば、自づと魂の眼を開らく法は工夫せらるる道理あらん。即ち信の緒(いとぐち)は是によつて開らかるると知らば可なり。始めは夢幻の如く目蓋に浮び居たる事も、是に信の力加はり行くに従ひて、果は真のものを見きはむるに至るなり。是等に対しては前書より屡々語りし如く、種々様々の障碍ありて信(まこと)のものを確実に見きはむる事は、容易の修養にては得られざるなり。一度あやまてば空中楼閣を作りて迷ひ入ることも多し。故に確実なる指導者を択ばずば、危険に瀕することは云ふ迄もなし。我等世人に対してかねがね注意なし居る如く、宗教は(宇相)有想なるが故に一度あやまてば危険を伴ふ故に、正しき宗教は信ずるもよけれど、不正の宗教は心して信ずることを止めよ説き居るも、かかる危険を伴ふによってなり。悪魔を信ずれば魔道に陥る。是魔界に転ぜられる故なり。信の力は斯くも強し。

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