覚者慈音1251  未知日記 第十巻   帰途案内記  巻の二   NO 107   セイキョウ貴尊講述

覚者慈音1251
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の二
転界の巻 
NO 107
                  セイキョウ貴尊 講述
                    2019.8.03


 キリストも釈迦も一法を以て導かんとなしたるに不拘、弟子達はその大意を悟らず、とやかくと道を造りたるため却てその一法すら傷けたるにてはあらざるか。是にはその時節の変化によりて、新らしき道を作りて今日に至りたるため、旧道は却てすたれ行く傾向のあるは是非もなきことなり。我等の世人に伝ふる道は時節の変化によって異なるものにあらず。如何に世の中の様が変化すとも、我等の教ゆる道は決して変化することなしと断言して憚らざるものなり。何故かと云ふに人に宿りし魂は、人間のあらん限り変化するものにあらざるなり。唯変化するものは智慧の程度に他ならず。智慧は魂を育つる肥料なるが故に、魂の稔りかたは異なると雖も魂は決して失はるるものにあらず。故に不滅の魂を不滅の世界に運び入るる道には、決して変ることはあらざるなり。我等の教へは智慧の程度が進めば進む程、道は明らかとなるによって我等の説は確定せらるるが故に、不変なりと断言して憚らざるなり。
 今語り居る説は現代人の智慧の程度にては、種々様々の論議は醸さるるならん。されど人智が向上発達するに従ひて、我等の説は明らかに証明せらるることは云ふ迄もなし。今語り居る説を聞きて実に尤もとさとる人は少なし。故にこの書は現代人には眼を向くる人は少なからん。されど世の中が進むに従ひてその後初めて、我等の説に眼を向け耳を籍す人は多かるべし。
 余事はとにかく世人は時間の階を上り、日々の階を上り、更に月年の階を上るも、是みな転界なし居るなり。其は即ち肉体の転界にして、心魂の転界にあらずと考ふるならば大なる誤ちなり。心魂も肉体と共に転界なしつつあることに、心づかずして徒らに、肉体に任せて歩みを運び居るにすぎず。今是を反対の立場より考察して時々刻々日月年と油断なく魂心を歩ませて、肉体をこれに伴ひつつ歩みを運ぶならば、心身共に健全なる発育は遂げらるるならん。

×

非ログインユーザーとして返信する