覚者慈音1246  未知日記 第十巻   帰途案内記  巻の二   NO 102   セイキョウ貴尊講述

覚者慈音1246
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の二
転界の巻 
NO 102
                  セイキョウ貴尊 講述
                    2019.8.02


 されば真の神を知るには学理ならざる或一種の方面より、考へを廻らして考究せば、却て大自然の根源を正しく認識することを得て、正しき神を知ることを得る道とならん。斯く語らば世人は又も云ふならん。そは他ならず。我等が先に語りたる神の有無は知る由もなし。よって汝等神を造りては如何と云ひし言葉を思ひ出して、又も我に疑ひの眼を向くるならん。是に対して我は答ふべし汝等は神の存在の有無を如何に説明せらるるとも、到底解することを得ざる智慧よりあらざるなり。故に神ありと思ひて汝の心に神を作り出し居らば、其にて神は汝に来り給ひて汝の心に深くしみ入るが故に、自づと神を知るに至る故なり。
 汝の心に神ありとして神を作り出す法を工夫することは、即ち汝の心の扉を開らきて神を誘ひ入るる法となるによって斯くは語りしなり。神ありと思ふ心は、神を導き入るる扉を開くによってなり。心の扉開らかるれば神は汝に来る。然することによって神を知ることを得るなり。神は遠きにもあらず。又近きにもあらず。即ち神には距離を有し給はざるが故なり。汝等の眼には地球は地球太陽は太陽、星は星と区分して見ゆれど、神よりは見る時はすべては一なり。人は人動物は動物と分ち居れど、神にはそのわけへだてはあらざるなり。何となれば宇宙全宇宙は神の力によって作り出されたるものなれば、根源の神は是を知り居給ふことは当然なるべし。


 世人は神を人体と同様の関係の如く考へて、肉体を想像するが故に、真の神を認識することを得ざるなり。肉体を有する神ならばその神は限度を有す。形を聯想して神を考ふるが故に、求むる神は錯覚的の神にすぎず。世人は神の姿を如何に聯想すとも解することを得ざるべし。されど神を追ひ求め一歩々々近より居るなれば、明らかに神を知ることを得ん。故に唯神の存在を認めて、唯己が眼に映らずとも神はありとの念を強うして、信仰の度を高めなば大なる神の栄光は汝に輝かん。

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