覚者慈音1211 未知日記 第十巻 帰途案内記 転界の巻 NO 67  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音1211
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の二
転界の巻 
NO 67
                  セイキョウ貴尊 講述
                    2019.7.26


 さてここに全く魂の緒切れて離脱なしたる魂は如何にと云ふに、是には三種の異なれる経路あり。一つは肉体を有する間に完全にさとりたる者、又一つは信仰ありても未だ完全なるさとりを得ざる者、更に今ひとつは信仰全くなき者の三種あり。先づ是等の内、信仰全くなき者の有様より語る事とせん。仏教信者の中には人死すれば四九日は屋根の上と云ふ教へを聞きて四九日の間は其家の屋根の上に魂は迷ひ居るものと思ひて、其間は燈明を絶へさせず回向なし居るを世人も知るならん。是等の事柄は何故かを考へしこともなかるべし。日々燈明を絶へさせざるは魂を迷はせざるよう、光明を彼に与へ、行くべき所に到らしめんとの思ひ遣りにて回向なし居るならん。斯かる事にて魂は迷はず到るべき処に到達するならば、肉体を有する間に行ずる必要もなからんとは思はざるや。四九日とは我等に言はしむれば、数を指すにあらずして始め終りなく苦む日と云ふ。即ち始終苦日(しじゅうくにち)の譬喩を数に引用したるものならんと思ふなり。然りとせば始終苦日(しじゅうくにち)は永久の苦しみを免がれじとの思ひ遣りにて、日々の回向をなして彼を迷はせざるよう行ずるにあらざれば、彼は昇天することあたはざるならん。終始苦日は永久の意味とすれば、彼の魂は他よりの回向ならでは、成仏することは難しとの意味より考ふれば、永久その家より離れずして、其処に止まり居る結果となるにてはあらざるか。数の四九日ならば其家に執着することも短日に終る。されど始終苦日(しじゅうくにち)の迷ひならば、彼の魂は永久その家に執着なし居りて、行くべき処を知らざる結果とならん。斯かる宗教者の教へを、世人は真実と心得て信ずることを得るや。信仰なき者の魂の成仏解脱は難し。故に肉体ある間に信仰せよとの教へをなすは宗教者の任務なるべし。余事は別として斯かる事を世人は率直に受け入れて、是を信ずることを得るならば、我の従来説き来りたる事柄は、異議なく信じらるる筈なりと思ふなり。然からば信仰なき者の魂の緒の全く切れたる結果は如何にと云ふに、彼は臨終に至って漸く余儀なく死を知りたるのみにて、生の方面には考ふる力なければ、不安にて魂のみ肉体を離れたるにすぎず。暫時は夢心地の姿にて暗中にただよひ居れど、其夢心地が消滅して魂のみが生を有するが故に、唯訳もなく右往左往して行くがままに漂ひつっ、あてもなく迷ふの他なすべき術をも知らずして浮遊し居るなり。されど魂の緒全く切れたるが故に、親兄弟知己の人などの事も亦、従来行ひ来りし己が経路をも知らず。故に我家に帰るとか、又従来住み来りたる地球上の様とか、凡ての感じもその悉くが失はれて、唯訳もなく浮遊し居るにすぎざるなり。斯かる姿なるによって地上より如何に回向なすとも、彼には通ずることなし。名僧が如何に法力を以てすとも、彼には無関心なること云ふ迄もなし。されば幽霊となりて地上に現はるることすら知らざるなり。さればこそ死したる者の現はれて、天国地獄の有無を語り聞かす等の便りはなすことを得ざるも此理によって察するを得るならん。冥土より未だ音信なしと云ふも是なり。故に世人は死後を火の消へたる如くにて、終ると考へ居るも事実は然らず。されば肉体を有する間に天界をきはめたるものならでは、汝等に死後を語りくるるものはあらざることを、先づ考慮に入れて我等の説を聞くべし。
  我等は生より生を得て、世人に語る力を与へられ居るが故に、世人をして天界に導くことを許されたるも、皆是修養修行の勤めを果たしたる結果よりの現はれなるが故なり。所謂我等は冥土より、汝等に便りをなし居ると知りて可ならん。
  汝等は近代の科学を正しと思ひて、科学的に考へを廻らすによって、我等の説と反対の結果を招き居るなり。汝等の考へにては肉体は構成せられて、その構成せられたる肉体のはたらきあるが故に、そのはたらきの力が所謂魂を生み居るとの思ひなるべし。故に肉体分離せらるれば、そのはたらきは全く静止す。肉体のはたらき静止すれば、魂も分離せられてはたらかざるが故に、是も供に分離せられて、全く魂としてのはたらきは消滅すと考ふるが故に、信仰の力は具はらざるなり。さればこそ肉体を有する間のみ、人間同士が争はずして平和にその日その日を送り居らぱ、其れにて人間界は栄ゆると云ふ宗教は成立なし居るならん。唯地上に生を享け、其れのみにて世は進歩発達するものならば、天界などの理論を考ふる必要もなし、又修養修行の要もなからん。

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