覚者慈音1164 未知日記 第十巻 帰途案内記 大序の巻 NO 20  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音1164
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の一
大序の巻 
NO 20
                  セイキョウ貴尊 講述
                    2019.7.12


 例へば仇をなすものを愛せよと云へる一言に対してすら「世人はかかることは人間なる以上なすことは難し。如何に神仏を信仰すとも怨みは恨み、仇は仇、恩は恩なり。焉んぞ仇するものを愛することを得んや。是即ち人間本能性なるが故なり。人間に生れたる以上かかる事なし得べき道理もなく又なすの要もなからん。仇なすものを真実本心より愛することを得るとも、其は神仏にあらざる以上人間にてはなし得べきことにあらず。かかることをなせよ」と勧むる者こそ誤謬ならんと思ふにてはあらざるか。「よし其事が本心よりなし得られたりとて天界に或は極楽に生るるとか云へる如きことの材料とはならざるべし。仇するものを憎まず、却て是を愛する如きことをなすとも、其は唯自己欺瞞にて虚偽の姿ならん」など考ふる人も亦僅少なからずあるならん。「仇するものを憎み或は我に来るものを愛してこそ、人間の道は全うせらるるにてはあらざるか。我等は神にも仏にもあらず。人間は人間なり。よって其儘に従ひ其折々に従ひて怒る時は怒り、悲しむ時は悲しみ、喜ぶ時は喜ぶ。其にて人道は全うせられたるにてはあらざるか」など語り居る人も多し。世人はかかる言葉を信ずるか。又是等の人を正直者として尊ぶか。世人の世界は斯くの如き姿なるによって一時のがれの信心を起し、何百種かの宗教信徒を作り居るにてはあらざるかに対して、深く考慮して眼を明らかにし、耳をきよくするの要はあらざるかと思ふなり。世人の信仰は唯病気を治癒し呉るる神仏とか、或は金銭をめぐみくれる宗教とかに対して、潔く帰依し居ることを我等は知る。斯るあさはかなる信仰にては到底天界の高きを広きを語るとも通ぜざる当然なり。
 我、先にも語りし如く米を作らんとして藁を作る者あらんや。所謂人間にて終らば藁を作りたるに他ならず。要は人と云ふ米を作るにあるなり。

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