未知日記霊話集未知日記霊話集 第千二百五十九回 絶対界 第八章 天に昇れば雲の上人 一法を修すれば、万法に通ずる底の行ひならざるべからず。然るに諸子は万法を教へられて、一法すらなし難きは、所謂知りてさとらざるが故なり。 かかる修行にては天界の如何なるかは解しがたからん テツシン貴尊講義

 ヒロさんの転記したものをここに掲載しています


絶対界 第八章 天に昇れば雲の上人
          テツシン貴尊講義



 斯く語るとも諸子には理解すること難しと云ふ人もあらん。 諸子は一より十迄知るにあらざれば、巳の智識にて解決することあたはざる人は多し。然して其を聞き終りて然あるかと思ひなば、其にて放棄するは一般世人の習慣なり。己苦しみて理解したることは、長く存在すれど、然らざるものは影を失ふ。 依つて是等に関しても我等は明確な答へをあたふるを避くべし。己に考へて己に求めよ。 然して己の心の否己が知慧の尺度を測り、其によって引き延ばさば知慧は拡大せられて長くならん。 何事も教へられたるままを受け入れて、其にて終らばその教へは空しくなるなり。 一を聞いて十を知る底の行に、あらざれば及ばざるべし。一法を修すれば、万法に通ずる底の行ひならざるべからず。然るに諸子は万法を教へられて、一法すらなし難きは、所謂知りてさとらざるが故なり。 かかる修行にては天界の如何なるかは解しがたからん。 形あるものは廻転し、形なき空のものは廻転せずと考ふるが故に、実のものにのみ囚はれて、空はおろそかにする傾きあり。即ち地球が廻転すれば空の廻転なし居るにも不拘、唯地球のみに囚はれて、空の廻転に眼(まなこ)を向けざる人多からん。 愚者は云ふ、我飛行機に乗りて空に昇り居るに不拘、地球が廻転するならば、我は空に居て羽根を伸ばさずとも、目的の処に達するならんと語り居る人もあるなり。斯る輩にては到底空を知ること難からん。足を運ばせて頭は歩みを進めざるに、足と共に進むを見て、其は不思議とは考へざるべし。 人馬に乗りて足を運ばざるに、目的の地に達す。 列車にのりて眠りながら、目的地に達す。この理を知るや。人歩まず、鞍歩まず馬歩まず、即ち馬の足のみ歩み居るにてはあらざるか。鞍上に人なければ人は歩まれず、鞍下に馬なければ鞍歩まれず。 人鞍馬三味一体となりてはじめてそのはたらきをなす。 もし鞍下馬なく、馬に足なければ如何!  雲上に神なく雲下に人なしとして、諸氏は考へを深くし見ば、天の理は従つて知ることを得るなり。 所謂人ありての神、神ありての人、人と神とをつなぐものは空なるべし。然らば空とは何かに心せざるべからず。無より次第に組織せられ行くは有なるべし。有より逆にかへせば無となる。無となりては働きをなすものにあらず。この考へは是又成立せざるなり。列車に乗りて人は眠る。是無の状態ならずや。馬に乗りて人は行く。是又無の状態ならずや。人も無鞍も無馬も無唯有なるものは馬足なるべし。然して是が三味一体となりたる時更にその中に心と云ふ眼に見えざる空のものの作用なくんば馬も進まじ。馬に乗る人の心が働きてすべてを動じ居るが故に進むなり。帰する処は心の働きに他ならざるべし。是無中の無と云ふなり。諸子はこの意味を深く考慮せよ。 我、故意と斯るまぎらはしき言葉もて諸子を導く。 是又空なり。無なり。 零なりと知らば可なり。不滅母の原理はここにあるなり。空と云ふはすでに実を現はし居るにて、不滅母より見れば、既に組織せられたる一種の有形と見なすことを得るなり。故に空とは既に実の家なり。不滅母とは無中の無なり。無始終霊子とは、更に無中の無より尚一歩進めたる、無中の無と見るも可ならん。 されどその中に何か含まれたる物のありとせば、限度なきは無の力なるべし。有とは限度を有すれど、無には限度なしとの結果とならん。されど無に限度なければ、有も又限度なしとの理も成立するならん。然りとせば有と云ひ無と云ふも、すべては言葉にしてこの言葉をとり去らば、即ち無言詞と云ふの他なかるべし。教主の教へを受くるにあたり予備智識として、この事柄をおぼろ気にても知りおくか、或は教主の教へを聞くに当つてこの項目を読みながら、聞く材料として我等は語りおくものなり。謂はば教主の教へを聴く参考書として、語りおくに他ならず。諸子には是のみにては到底理解すること難きを知るによつてなり。

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