未知日記霊話集未知日記霊話集 第千二百五十八回 絶対界 第八章 天に昇れば雲の上人 未知の不確定語が既智の確定語となりて現はるる時、この場合霊の影は明らかに輝きて、汝が心に映ずるならん。その時こそ汝の個性は何なるかを、明らかにさとることを得るなり。是を禅にては「水清うして地に徹す」と教へ居れり テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 



絶対界 第八章 天に昇れば雲の上人
          テツシン貴尊講義


 有機と無機との関係には、かくも隔りたる処に一種の何ものかが、含まれあることに眼をむくれば、更にその中より新らしきものの発見することも得らるるなり。一つの言葉に於てもかくの如き、微妙なる関係あることに留意せよ。 諸子の常識と称へ居るは、凡て有形の方面より観察なし居るにて、無形の方向には常識を働かす人は少なし。唯形を追ひ求めて進むが故に、霊の存在を知ることを得ざるなり。是を無形の方向に思ひを致して考究するならば、霊の存在を知ること難きにはあらざるなり。この点に着目して宗派を開らきたるは、禅の方法なるべし。故に禅の方法は未知の問題によって、是を既知に到らしめんことを計るは、即ち心より意、意より魂、魂より魄、魄より霊へと次第に深く追ひ求めて、霊の力を引き出して、其によって解決の道を開らかんとする方法にして、謂はば心を霊に化せしめて、霊の力によって、己の個性が如何なるかを知らんとする方法を用い居るならん。心は常に動揺して平ならず。 上下左右なし居るによって、常に乱れがちとなり居るため、その心のみ働かせ居りては、すべての事柄に於て誤つこと多し。是を魂に委せ居らば、魂は動揺せざるが故に、迷ふことあらざるによって、常に心を平にして魂に委せおかば、すべてを誤つこと無きは当然なりとして、この方法によってすべてにあたれよとの意味を、平常心是道と教へ居るならん。魂を霊に化せしめずば、神を知ること難し。教主が教へ給ひし頭腹一体とは、即ち平常心是道に合ふにて、その点禅の方法に相似たる教へなり。されど禅の方法の如く特殊のわざを用いよと云ふにはあらず。日々の行ひの上に対して、頭腹一体となりて事に当り居らば、坐禅公案の必要はあらざるなり。日々の業を怠らずして、その業によって道を修めなば、其にて目的は達成することの理を、教へ給ひしなり。 つとめ即ち禅なり。この事柄にも禅の方法は示めしあれど、教主の教へとは、又異なる点少なからずあるなり。是等の事柄は後に教主の教へを受けなば、自づと理解することを得るならん。 すべていろいろの宗派には、宗の教への特徴ありて、その特徴が却て変態性となり、その特徴に束縛されて、却て横道にふみ迷ふこと多し。是を宗教狂と云ふなり。宗教狂になりては却て、横道にふみ入り居るによって却て望みを達することを得ずして、転落の方向に向ふ人少なからずあるなり。諸子は宗教を信ずるならば、宗教狂にならざるやう心して、横道にふみ迷はざるやう注意せざるべからず。余事は兎に角「鞍上人なく鞍下馬なし」の如き未知の問題を仮に大きく考へて 「雲上に神なく、雲下に人なし」又「雲上に太陽なく雲下に地球なし」として考へ見るも可ならん。是を更に小さくして「心上に魂なく、心下に体なし」或は、「体上に頭脳なく、体下に脚足なし」として考究するも可ならん。斯くしてその考を次第々々に広く範囲を広めて、奥深く心より意、意より魂、魂より魄、魄より霊へとつき進め行けば、霊智ははたらきて遂には、未知の不確定語が既智の確定語となりて現はるる時、この場合霊の影は明らかに輝きて、汝が心に映ずるならん。その時こそ汝の個性は何なるかを、明らかにさとることを得るなり。是を禅にては「水清うして地に徹す」と教へ居れり。所謂動揺する心は、混濁するが故に、是をすませ静かならしむれば、水の如く清くすみて、地の底まで清くすると云ふ意味を語り居るならん。


行者は深山幽谷にありて静坐し居るも、心の動揺を沈静めんがための修行に他ならず。故に諸子は常に乱れたる心をしづめて、 平常心となりて物事を処理するならば、決して誤ちを犯すことなきは当然なるべし。すべて形を有するものには、形ある物の集り来るは自然の法則なり。故に形あるものには形あるもの現はれ、形なき処には形のなきもの、現はるるは是又、自然の法則なり。実には実あり。空には空ありと語り居るは是なり。この理より考ふる時、実には汚れ多く、空には汚れなしとの意味も、察せられるならん。所謂実は濁り、空は澄む。是即ち自然の力なり。故に実より実を追ひ求むれば、濁より濁に導かれ、空を追ひ求むれば、汚れは浄化せられて、清き方向に移さるる理は、推して知ることを得るならん。是等は引力と圧力の関係に移されあるが故なり。口より出づる空気はにごり、鼻より入る空気は清らかならん。 是等も引力圧力の関係によって、浄化せられある一種の自然法則なるべし。 諸子はロより入るる食物を清しと云ひ、下方より排出するを汚物と称へ居るは何故ぞ。即ち「鞍上人なく鞍下馬なし」の解決は是にて悟ることを得るならん。

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